2010年09月21日(火)

「しかし、ふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった」ルカ24:18  

 

二人の弟子達は目がさえぎられていた。かたわらを歩いておられる方が、主イエスだとはわからなかった。なぜ、わからなかったのか。御言葉によると「信じない、心の鈍い人たち」とある。不信仰が目をさえぎっていたと。復活を信じない彼らは、主が死んでしまったと、深い失望と落胆、絶望の中にあった。悲しみも
あった。

私達も失望の中にいる時、主が決して見えない。見えなくなってしまう。「失望」とは主に期待を向けない、主を見限った不信仰だからだ。不信仰は私達の心をふさぎ、目を閉ざしてしまう。又、「自己憐憫」は自分の殻にこもり、主を排除するので、ただ見えるのは自分だけだ。又、「不安」も目がさえぎられる。
思い煩いに支配され、心配の山だけが見えて、主がどこにも見えない。

主をシャットアウトしてしまう。「多忙」も目の前の事柄に心が奪われてしまい、主を認める事をさせなくする。あなたも今、目がさえぎられているだろうか。障害物に気づき、悔い改めよう。失望か、思い煩いか、不安か、自分の欲望か、それらはおおいとなって、目がおおわれてしまう。

それを取り除けて頂こう。主に向く時、視点が変わる。発想が変わる。主を見るなら、希望が持てるので、信仰が生まれる。今もあなたのかたわらに主がおられる。
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肉の目は、見たいものだけを見たいように見て行く。だから少しの時間でも御言葉に触れ祈る、交わりの時を守ろう。色々なもので目がさえぎられていることを御霊様が教えて下さる時、すぐに同伴して下さっている主に気がつきますように。