2010年10月22日(金)

「それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです」ヨハネ9:39


「見える」と言うから「罪は残る」と言っている。安息日に病気の手当をする事は、仕事と見なされ、パリサイ人達は、主が律法を守らないと断罪した。「神から出たのではない。なぜなら安息日を守らない」と。彼らは神の言葉でなく、人の言い伝えを重んじ、それゆえ神の言葉が見えず、わからない。

主は「わたしはさばきのために来た。見えない者が見えるように、見える者が盲目に」と言われた。主に対してどのような態度を取るかが、結果的に裁きとなってしまう。主を受け入れるなら、永遠の命に。主を拒むなら、闇にとどまる事になる。すると、「私たちも盲目なのか」と聞いた。

「私たちは見えているのだから、盲目であるわけがない」と。自分たちはアブラハムの子孫であり、旧約聖書をよく知っていて従っている、よく見えていると。それに対して主は、自分にはわからない、自分には見えないと言えたなら、見えるようになる道筋にある。大きな恵みの中にある。

しかし、よくわかっていると思っているから、それこそが盲目状態なのだと。私たちも、自分はよくわかっていると思った時点で、成長はストップだ。実際は何もわかっていない、成長途上の者だ。わかっていませんと、絶えずへりくだる時、ずっと見せ続けて下さり、どこまでも成長して行ける。
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わかっていない事がわからないのは悲劇だ。何も教えられないのだから。神に対する求めも渇きもない。私達も見えているようで見えない者だ。事毎に主に求め主から受け、少しでも成長していきたい。