2011年03月22日(火)

「安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか。それとも悪を行なうことなのか」マルコ3:4  


                   
主は、パリサイ人から、弟子達が安息日に、穂を摘んだと非難された。してはならない事をしたと。その後、主が安息日に会堂に入られると、そこに片手のなえた人がいた。パリサイ人は、主がその人を直すかどうかと、凝視した。それは、主を陥れるためであった。何という冷ややかな心だろう。

主を弾劾し、自分達を正当化するために、手のなえた人をも利用する。そして、その人が癒されるという、奇跡を見ても、何の感動もなく、すぐに主を殺す相談を始める。他人事ではない。他人の事はよく見えるのだが、自分の事はわからない。「自分は正しい」に立つ時、見えないまま、自分もまたパリサイ人になって
いる。その態度の原因を「その心のかたくななのを嘆き」と、心の頑なさによると言われた。

心は硬くなり、感覚が失せていた。愛や憐れみや同情に無感覚だ。それは主の殺害計画にまで発展して行く。なぜここまで頑なになったのか。自分を正当化し、心に生える苦い根を引き抜かず、はびこらせ育て上げてしまった。私たちにも苦い根は無いだろうか。

憎しみ、妬みの根は放っておくと、増幅して行き、殺意にまで発展する。実際、彼らは妬みで主を十字架につけた。一方、主は愛と憐れみで心が一杯であった。同じ「じっと見る」目が、何と対極にある事だろう。根にあるものに気づかされ、明け渡して行こう。主が愛とあわれみを注いで下さる。
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心のかたくなさゆえに正しものが正しく見えなくなっているなら、私達も十字架につける側に立って行ってしまう。思いをかたくなにしている苦い思いは主に明け渡し主が見られているように真っ直ぐに見ていこう。