2011年06月21日(火)

「ほうっておきなさい。彼にのろわせなさい。主が彼に命じられたのだから」Uサムエル16:11


人が、自らの非を認めること、悔い改めることは、非常に難しい。罪の性質があり、プライドが妨げる。御霊の導きがなければできない。私たちは、自分が誤っていると思わないし、決して認めない。自分の行動を肯定して生きている。間違いを認める事、非常に痛い事なので、言い訳を探し、自己正当化する。

又、ごまかしてしまい、神に向き、自分に向き合う事をしない。逃げてしまう。ダビデ王が、息子アブシャロムの謀反に会い、逃げる時、シムイがダビデに石を投げつけ、呪った。家来たちがシムイの首を跳ねましょうと言った時、その非難は、罪を犯した自分に対してのものであるから、呪わせよと命じた。いっさいを主に委ねて「主は私の心をご覧になり、今日の彼の呪いに代えて、私に幸せを報いてくださる」と言っている。

ダビデは自分の罪をはっきりと認めた。そして、罪の結果である刈り取りを受け入れている。蒔いたものは、必ず刈り取る。これに例外は無い。私たちは、自分が蒔いたものを刈り取る。罪は完全に赦されるが、刈り取りはして行く事になる。非常に痛く辛い。

しかし、神の刈り取りを受け入れ、従って行く事こそ、一番の祝福の道だ。ダビデは神の御前に悔い改めたので、神との関係が、正しかった。それゆえ心は平安であった。神との関係が正しかったからこそ、自分への非難や攻撃も受け止める事ができた。神と自分の正しい関係が第一だ。その時、みこころを行なって行ける。
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神との関係を取り戻し、神の御心の中心に戻れたことが何より平安の源だ。刈り取りの辛さの中にも神は共にいて下さる。自分の間違いを謙遜に認める事からはじめよう。