2012年03月22日(木)

「『わたしに何をしてほしいのか』・・『目が見えるようになることです』」マルコ11:21


バルテマイは主に「あわれんで下さい」とあわれみを求め、「何をしてほしいのか」と問われた時に、「目を開けて欲しい」と願った。バルテマイを通して、教えられる。まずバルテマイは、自分の目が見えないこと、憐れんでもらわなければならない者である事を、認めた。

人間は、「認める」ことが非常に難しい。自分の本性、本当の姿、弱い、惨めな姿を認めることはなかなかできない。受け入れられない。逃げたり、避けたり、ごまかしたり、あいまいにしてしまう。痛いからだ。そして、自分で認められない時、人に弱みを知られたくない。人にも隠してしまう。すると、ずっと同じ所に止まったままで、変えられる事も成長も無い。信仰の成長は、ありのままの自分を認めることから始まる。認める時、主はそこで働かれ祝福し、成長が与えられて行く。

次に、どんなに弟子達に制止されても、ひるまず、人々の手前も構わず、大声で執拗に叫び立て、叫び続けた。主に呼ばれた時に、盲人として生活する上で、非常に大切な上着を捨てて、主のもとへ行った。もう上着は必要無い。癒して下さる事を信じきっていたからだ。

決して諦めない執拗な求めも、目を開けて下さると「信じた」からだった。そして、そうできない、力の無い相手に、まず求める事はない。主は彼の信仰を喜ばれ、求めに応えられた。目が見えない事を認めて、主に求める時、霊の目を開いて下さる。求めよう。
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弱さや醜さは主がすべて知って下さっているのに「主よ憐れんで下さい」と認め求める事ができないなら主よ私の人生に関わらないで下さいと言っていることだ。主に向かって叫び、闇から光に一歩進もう。主は決して見捨てられない。