2012年11月21日(水)

「パロの心はかたくなになり、彼はイスラエル人を行かせなかった。主がモーセを通して言われたとおりである」出エジプト9:35


パロは様々な難に苦しめられると、「お前たちを行かせる」と言い、又、苦難が止み、落ち着くと、「行かせない」と言い、又、難が来ると「私は罪を犯した。主は正しい。もう沢山だ。お前たちを行かせよう」と言う。「私は罪を犯した。祈ってくれ」とまで言い、一見、悔い改めに見えるが、モーセの祈りで、事がおさまると、又、心頑なになり、強情になる。

口ではそのように言うが、心の底では思ってはいない事の表われだ。王であり、最高権力者であり、何もかもが自分の思い通りに、自分を中心に思うがままに回って来たパロにとって、主の奇跡、みわざは、単に脅しに過ぎなかった。脅しが無くなれば、何の問題も無い。だから何も変わらず、同じように元に戻る。主の奇跡のみわざが、主ご自身を知り、主のご愛や真実を知るに至ることに、全くならなかった。私たちはどうだろう。

ただ単に災難であり、とにかく苦しみが去りさえすれば良いのだろうか。それならパロと変わりがない。「わたしが主であることを、あなたがたが知るためである」。様々な問題は、神が主であることを知るために送られている。それは、主ご自身を知る時であり、又、自分の内側が照らされる時だ。悔い改めがあるかも知れない。きよめられ、一段階成長の時だ。又、主のご愛を体験する時だ。
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目の前のことを通して主はいつも教えようとされている。その問題を通っているの自分にしか分からないことだ。ただ早く過ぎれば良いと思うが、主が与えて下さる成長の時と見つめて行けますように。