2013年11月21日(木)

「鼻で息をする人間をたよりにするな。そんな者に、何の値うちがあろうか」イザヤ2:22 



私たちはどうしても人の目が気になり、他人の評価を気にする。
心の底に人に認められたい、評価されたい、受け入れてもらいたい、愛されたい、との強い願望があるからだ。「人の望むものは、人の変わらぬ愛である」とある通り、私たちは生まれつき人の愛が欲しい。これは普段、認識していないだけで、自分が思っている以上に強い。だから人の目を気にし、人から良く思われたい。良い人でいたい。

それは愛されたいからだ。これが高じて行くと、人目を気にして、嫌われたくないので、人にへつらい、人の顔色ばかりを気にし、ノーが言えなくなる。生き生きと御霊の自由の中で、自分らしく生きる事ができない。対人関係で、なぜ傷つくかと心を探ると、人に認められたい、評価されたい、人からの賞賛が欲しい、それが根深くあり、そこに触れるから傷つく事になる。認められない、評価されない事で傷つく。

しかし、自分の判定を他人にさせてはならない。人に自分の事を決められるのは間違っている。あなたを愛してくれている人は別として、別にすべての人が私たちの事を考えているわけではない。心が傷つく時に、それはどこから来ているのか考えてみよう。人の愛が欲しくて、人に根深く依存している事が原因かも知れない。人ではなく、神の愛にしっかり依存しよう。ここに失望は決して無い。そして、人の目によりがんじがらめの自分から解き放たれる。自立とは神に拠り頼むことだ。
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人の評価は気になるが、それで自分の行動が左右されてはいけない。人の目を恐れてではなく、神にあって人を愛して行きたい。私を評価されるのも裁かれるのも神だ。自分で自分を裁くこともしないと言うパウロのように人の目から完全に自立して行きたい。