2014年01月22日(水)

「この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される」Tサムエル17:47


いろんな信仰の勇者たちが、信仰の戦いを戦ったが、その方法は人間的に見るなら、ほとんど意味をなさないような方法だった。モーセは、民をエジプトから脱出させたが、エジプト軍の追っ手に窮地に陥った。前は紅海、後ろからは最強の軍隊だ。進む事も退く事も出来ない。絶体絶命の中で、主はモーセに、民に前進するよう言えと、命じられた。主が戦うと。

モーセと民が、エジプト軍と戦闘を交えたのではない。又、難攻不落のエリコの城壁を前に、主はヨシュアに町の周りを回るよう命じられた。6日間町の周囲を1度周り、7度目に7度回り角笛を吹き、大声でときの声をあげよと。城壁を何とかしたのでは無かった。又、ダビデは、巨人ゴリアテに、石投げで石を打ち、倒した。

彼らが戦いに勝利したのは、神の御声に耳を傾け、神の方法に従ったゆえであった。人間の思いでは、そんな事をして何になるとの不思議な方法だった。しかし、主の命令通りに従った時に、神の大きな奇跡が現わされた。「主があなたがたのために戦われる」まさに人間ではなく、主の戦いであった。

私たちも時々理解を超えることがある。しかし、信じて従う時、神の栄光を見る。御霊は窮地で導かれる。それはへりくだる事、あちこちに謝罪する事かも知れない。又、自分には不可能に思える御心に、信仰によって一歩踏み出す事かも知れない。とにかく神の方法に従う時、主ご自身が戦って下さる。
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自分中心に物事を見て解決して行こうとすると、恐ろしさで一歩が踏み出せない。この問題の中で主がしようとされている事が必ずあると、主の方法は何かに視点を変えよう。