2014年02月19日(水)

「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ」箴言18:12



謙遜とは、単に腰を低くすることではない。又、自分には能力があるが、それを人に見せびらかさない、という事ではない。そうではなく、本音で自分は無力だと思っている事だ。取税人は真に自分の罪深さがわかっていた。それゆえ、パリサイ人のように、人と比べる事など思いも及ばない。ただただ、神だけを見て、神に赦しを求めた。そこに人などなく、神と自分の関係しかない。神の前の自分を見ていた。そして彼は赦された。

モーセは40才の時に、神から出たものでなく、自分の思いで、自分の力で、同胞を救うために立ち上がった。しかし、失敗し、荒野に逃れ、羊飼いとして40年の歳月を過ごした。そんな80歳の時に、召し出された。40年前と違い、年老いた一介の羊飼いだ。かつての栄光も、力も無く、何も持たず、真に自らの無力を思い知ったモーセは「私はいったい何者なのでしょう」と尻込みした。神に説得され、押し出された。

主の一番弟子であったペテロは、いつでも前面に出て、時に調子に乗り、出しゃばってしまう、自信家であった。しかし、目の前で、あるはずの無い大漁の奇跡を見た時に、「わたしから離れて下さい。わたしは罪深い者」と真にへりくだった。そして、主を3度否んだ後、号泣して悔い改め、自らの徹底無力を思い知った。心の貧しい者は幸い、自分の心底無力を知る人こそが、大いに祝福された幸いな者だ。自分を誇れず、自分に頼れず、主に拠り頼み、拠りすがって行くからだ。砕かれて、無力を知って行く歩みこそ、実は最大の祝福だ。
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自分の無力さと引き換えに主への感謝と信頼は増していく。信仰生活なんと感謝な事だろう。弱さや醜さを抱えた本当の自分で主に従っていこう。