2014年05月22日(木)

「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、 もう一人は取税人であった」ルカ18;10

   

パリサイ人は「自分を義人だと自任し、他の人々を見下して」いた
とある。彼は注意深く律法を守っていた。週に2度断食をして、す
べての収入の十分の一を忠実に献げていた。立派な行ないをしてい
た。しかし遊女や取税人を、見下し、軽蔑していた。

幾ら外側、正しい事を行っていても、心の中で、罪ある人を裁き、
赦せないなら、「この人が、義と認められて家に帰りました。パリ
サイ人ではありません」との通りだ。自分を義人だと自任していた
が、主からは義と認められなかった。

役人であり資産家である青年は、主のもとに来て、戒めを「そのよ
うなものはみな、守っております」と言った。「隣人を愛せよ」と
言われ、それは守っていると言ったが、実際は貧しい人に施す事が
できず、主のもとを去ってしまった。

放蕩息子の兄も、「長年、お父さんに仕え、戒めを破った事は一度
もない」と言った。好き放題をし、身を持ち崩して戻った弟に対し
て怒りが湧き、赦せない。怒って家に入ろうともしなかった。外側
正しく、罪を犯さず善行をしている人々は、内側の罪がなかなかわ
からない。外側、善い事をしているので義人だと思ってしまう。

ところがこの取税人もザアカイも自分の罪がよくわかった。ザアカ
イは大喜びで主を迎え、だまし取った物は4倍にして返すと言った。
この取税人も「こんな罪人の私をあわれんで下さい」と祈った。そ
して「義と認められて」家に帰った。御霊が罪を教えて下さる。悔
い改めるなら、義とされる。何という恵みだろう。

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「罪人」が赦されて、義とされる。赦されて義とされるのは、「罪
人」だ。自称「義人」が、義とされる事はない。罪人ではないから。
御霊に罪を示され、悔い改めることができることは、何という大き
な恵みだろう。赦されて、赦されて、生きて行ける。