2014年06月21日(土)

「キリストは、人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、 死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです」ピリピ2 :8 



ある牧師の体験談だ。神学生の時、同級生と、ちょっとした事でも
めて言い争いになった。双方で、口もきかない状態になってしまっ
た。怒りで、赦せない思いは、苦しく、悶々の日々であった。考え
ると腹が立って仕方がない。赦せない。

しかし、メッセージ当番があり、回って来る。こんなままでメッ
セージ準備が出来るはずもなく、しかし怒りはおさまらない。とう
とうどうにもならず、主の御前に出て、あるがままをさらけ出し、
祈った。怒り、赦せない思い、裁く思い、責める思い・・何もかもを
打ち明け、じっと主の御前にいた。

その時、主の十字架が目の前に浮かび上がった。罪の無い方が、こ
の自分の罪を負っておられ、苦しめられ、そして主は、自分のため
に何もかもを捨てられた。それに引き替え、自分はというと、自己
正当化、自己主張、自己憐憫、どこまでも、ただ〃自分、自分・・。
自分の思い、自分の気持ち・・自分のことしかない。

涙が溢れ、心から悔い改めた。心がすっきりし、赦されたことがわ
かった。あんなに苦しかった心が落ち着いた。相手に謝り、和解で
きた。平安が満ちて、喜びもって、奉仕にあずかれた。
自我が苦しく、自分、自分になっている時は、じっと十字架を仰ご
う。神のあり方を捨てられ・・「自分を卑しくし、死にまで従い、実
に十字架の死にまでも従われた」主を見つめ続けてみよう。

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自己満足、自己主張、自己正当化、自我は自分のことしかない。自
分の気持ちが傷つけられた・・では、相手の気持ちや、主のみ思い
は?そこが飛んでいる。この自我の解決のためにも、主は十字架で
かたをつけて下さった。「私はキリストと共に十字架につけられま
した」。今日も十字架を見上げ、新たにされたい。