2014年10月22日(水)

「また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです」マタイ6:7 



パリサイ人たちは、会堂や通りの四つ角に立って祈った。しかし、
それは「人に見られたくて」自分が信仰深く、いかに祈る者である
かを、「人に見せるため」だった。神ではなく、自分を崇めるもの
だった。「祈る時には、偽善者たちのようであってはならない」。

人に聞かせるために、良く見られたいがために、人に見せる祈りと
は逆に、人前で祈る事に尻込みする事がある。人を意識し、自分を
意識するので、人前で祈る事は恥ずかしい。実は、これも同じく人
の評価を気にする肉から出たものだ。

又、異邦人のように同じ言葉を繰り返すな、と言われた。言葉数が
多ければ良いとばかりに、何時間も同じ言葉を唱え、祈り倒さんば
かりにガンガン祈る。異教ではよくある事だ。しかしこれは根本的
に違っていて、私たちと主とは、取引き関係でなく、力でねじ伏せ
て聞いてもらうのでなく、信頼関係で結ばれている間柄だ。

主は祈る前に、私たちの必要をすでにご存じだ。しかし、だから、
祈らなくてもよいのでなく、「だからこそ」祈れと言っておられる。
主は求めに答えられる。すでにわかっていて下さるからこそ、安心
して求めることができる。「自分の部屋に入り、戸をしめて」人で
はなく、自分でもなく、神を意識して、神に向き合って行こう。
-------------
祈りあうときも互いが神を見て、神に向かって祈るのでそのご臨在
に満たされてさらに恵まれる。形式的な祈りより拙い祈りでも、幼
子のように神に向かって祈ろう。