2015年04月21日(火) 「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師を自分たちのために寄せ集め」Uテモテ3:3
「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師を自分たちのために寄せ集め」Uテモテ3:3
神を求めているのだが、実感が無い。祈ってるが、祈りが届いてい るのだろうか?聞かれている気がしない、わからないという人々が いる。求めているのにどうして?「求めよ、そうすれば与えられる」 と言われ、求める者には答えて下さるお方ではないのかと。 求めているが、よくわからないという時、自分に都合の良い神を求 めている場合がある。自分に心地良い神を求めている。自分のイメ ージ通りの、思い通りの神が欲しいのであり、そんな神は存在しな いので、どう求めても出会いようがない。神がわからないという時、 的がずれていないか。 神を求めているのではなくて、自分に都合の良い偶像を求めていた りする。それは、ただ愛してくれるだけの神だったり、癒しを求め るばかりで「愛されている」事だけがすべてだ。罪や義、さばきに ついて知る事、又、自らの真の状態を見ること、訓練や鍛錬、試練 は欲しくない。成長にもたいして関心がない。自分の願いを叶えて くれるだけの神が欲しい。 しかしもし、神を真に知りたいと願うなら、従いますの姿勢に立と う。そして主の御心を求めて行こう。自分を捨て、御心に従って行 く時に、その人には神が必ずわかる。自分に都合の良い神ではなく、 神に自分を明け渡して行く時に、必ず神がわかって行く。 -------------- 求めていく過程で神を知っていく。御心にそって変わって行こうと するときの導き、また出来ない行き詰まりを通して常に関わって下 さる神ご自身を知れる。