2015年12月22日(火)

「すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた」マルコ5:29




12年間も、長血を患った女性がいた。長血は、律法によって不浄
とされ、礼拝へ出ることもできなかった。肉体的苦しみに、精神的
苦しみ、又、経済的にも次から次へとあらゆる医者にかかり破綻状
態だった。この先に何の希望もない。どんなに辛く苦しい絶望状況
だったろう。主に救いを求め、主の着物にでも触れば、癒されるの
ではと思った。

それは必死の思いであり信仰であった。なぜなら、不浄のため、他
人には触れる事ができないはずだった。にもかかわらず主に触れよ
うとした、諦めない、屈しない信仰であった。信じなければ、触り
などしない。主の着物に触れ、ひどい痛みが取れ、病気が治った彼
女は、誰にも知られずに密かに立ち去ろうとした。

しかし主は、「わたしにさわったのは誰か」と捜され、どうあって
も隠しおおせないと悟った彼女は、進み出て、皆の前で、事の次第
を話した。人の後ろに隠れ、人混み紛れ込み、おどおどしていた彼
女が主の御前に、皆の前に出て、余すところなく打ち明けたのだ。
主は、彼女の口からはっきりした信仰告白を引き出そうとされた。

なぜなら彼女には信仰があったからだ。彼女を光の中に出し、信仰
を告白させ、その信仰を確かなものとされた。「あなたの信仰があ
なたを直した」「安心して行きなさい」私たちはどうだろう。群衆
に紛れているだろうか。主は向き合っていて下さる。主の示しに応
答しよう。 
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御言葉を知っていても聞いていても、示された導きに信仰もって応
答しているだろうか。主は向き合ってくださっている。自分を主に
明け渡して行きたい。