2016年05月22日(日)

「御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるという のですか」ガラテヤ3:3


この世の価値観、肉の価値観は、行ないに価値を置く。良い行ない
をするのが良い子で、悪い行ないをするのが悪い子だ。クリスチャ
ンになっても、生まれつきの価値観が根深くしみついている。行な
いではなく、何の行ないも無いものが信じただけで、救いを受けた。
救いは信仰によった。神の一方的な恵みだった。

しかし、根強い価値観は、信仰によって救われた後の信仰生活は、
自分の力で、行ないで行こうとする。品行方正なのがクリスチャン
と思っている。善行をしなければと思う。人には親切にし、困って
いる人を助け、聖書を読み、祈り、良い行ないに励もうとする。

しかし、しばらくは自分の力で出来ても、やがて行き詰まる。自分
の力で行なうので、油切れ状態になる。機械のオイルが切れたなら、
きしんでうまく回らないように。尚も、自力で頑張ろうとするが、
自分で機械を回しているように、信仰生活が背負い切れず、重くな
り、苦しくなって来る。何とも辛くなる。

きしむ車を、自分が引いて、坂を上るような絵になる。そして又、
主を助手席において、自分が運転席の状態だ。自分が主をお連れす
る。主に運転席に座って頂いて、自分は助手席だ。すると苦しくな
く、重くなく、軽やかで平安だ。「自分が」「自分が」になってい
るなら、立ち返って主にお委ねしよう。御霊に導かれる信仰生活は、
決して重荷とはならない。主とひとつであり、そこには平安がある。

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主から目を離すと、すぐ肉が出て来て、肉によって完成しようとし
てしまう。自分でやろうとしてしまう。途端、オイル切れのように
きしみ、潤いも平安も失せる。主に向く時、立ち返れて、憩いに戻
れる。御霊の気づきに感謝だ。