2017年01月22日(日)

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪 のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに 愛があるのです」Tヨハネ4:10


祭司長や律法学者たちは、常に人の前に生きていた。立派な良い行
ないをする事で、人々からの賞賛を得、認められ、評価される事を
求めていた。人からは認められたいのだが、自分の罪は認めず、主
が救い主である事も認めなかった。私たちもどうだろう。主に出会
う以前は、生まれて以来ずっと人との比較の中で生きて来た。

目に見える所でしか、量れないため、目に見える人との差異で、自
分を量って来た。それしか方法が無いからだ。そのため、比較の価
値観の中に生きて来た。救われてからも、培われた価値観は根深く、
主を知りながらも、比較の中に生きてしまう。そして、どうしても
目に見える人からの賞賛を求めてしまう。人から良く思われたい。
嫌われたくない。好かれたい。

しかしそれが強くなると、御言葉ではなく、ひたすら人から良く思
われたい、その一心で動いてしまう。人から認められて安堵する。
基準が御言葉でなく、人になってしまう。御心からずれてしまうの
で、平安は無く、ますます人からどう思われているかばかりが気に
なり、不安と思い煩でいっぱいになる。

「わたしはあなたを愛している」の通り、「神に愛されている」そ
の土台から離れず、そこを信じ、そこに立ち続ける事が大切だ。そ
こが不確かだと、人の愛を求めて、迷路をさまよってしまう。まず
神に愛されている事を受け取り、信じ、心を定めて行こう。

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神に愛されている事から目が離れると、人の愛を求め、人の評価を
求め、人に認められたいとさまよってしまう。さまよっている間も
神の愛は変わらない。私が神を愛したのでなく、神が愛して下さっ
ているからだ。この揺るがない土台にいつもとどまっておれるよう
に。