2018年09月21日(金)

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」ガラテヤ2:20



エデンの園で、アダムとエバは、食べるなと命令されていた、善悪
の知識の木の実を食べたが、それにより、彼らには自意識が生じた。
それ以来、たえず自分が自分を見て、量り、裁くようになった。人
がどう見ているかを、人の目でなく、自分の目が量る。結局人が恐
れているのは、人の目ではなく、実は自分の目だ。

自分が、自分の一番厳しい審判者だ。自分が自分を追いつめ、縛る
ようになった。そのため絶えず恐れと不安が生じ、恐れる者となっ
た。自分が自分を裁く。自分の中に敵をかかえていて、自分を一番
傷つけているのは、相手や周囲でなく、実は自分自身だ。これがア
ダムの罪の結果だった。どうやっても自分から逃れられない。

自我、自己愛、自己中心、自己防衛、自己憐憫どこまで行っても自
分、自分だ。ここから救い出すために主キリストが来て下さった。
この罪を引き受け、荒野で蛇が上げられたように、呪われた姿で十
字架にかかられた。主を信じ、罪を悔い改める時、過去のすべての
罪が完全に赦される。無罪放免とされる。十字架の贖いにより、す
べての罪の片がつけられている。

そしてそれと同時に、自分自身も主が十字架で死なれた時に、一緒
に十字架につけられた。古い人が十字架で死んだ。自分はすでに死
んでいる。ここに救いがある。このどうにもならない自我が釘付け
にされた。日々この信仰に立って歩んで行く時に、キリストが内に
生きていて下さることを体験して行ける。
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拠りかかれると思っている自分は、既に十字架で死んだ。自己満足
のために労している一つ一つに気づき十字架を仰ごう。主の十字架
によって、新しくされた喜びを味わって歩もう。