2019年03月22日(金)

「彼らはヨハネのところに来て言った『先生・・あなたが証言なさったあの方がバプテスマを授けておられます。そして、みなあの方のほうへ行きます』」ヨハネ3:26



主が来られた時、皆の関心と人気が、バプテスマのヨハネから主に
移ってしまった。人々は群れをなして、主の方へ行った。その時に
ヨハネの弟子たちは、群衆がこぞって主に行き、主が大きな人気を
博している事に妬みを覚えた。自分の師への身びいきゆえであった。
しかしヨハネは全く違った。

「人は天から与えられるのでなければ、何も受けることはできない」
と、全主権が主にある事を認め、心から受け入れていた。自分は主
が与えて下さるものを受けるのみだ。そしてそれが満足だし、それ
こそが真の満たしなのだと。別の人に関心が高まり、人々がついて
行くなら、それも主のなさる事であり、自分がどうこう言う事では
ない。

ヨハネは与えられた境遇、位置、立場、能力をわきまえ、心から感
謝し、満足していた。「満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益
を受ける道です」。満足する心は主からのものだ。肉の内に、満足
は無い。肉はどれほど手に入れても満足する事はない。もっと、も
っとと、常に不足だ。貪欲は底なしなので満足する事がない。

私たちはどうだろう。誰かが褒められれば、結果を出したなら、心
騒ぎ、ざらつくだろうか。絶えず主を認め、与えられた場所、地位、
能力に感謝し、受け入れる時、私たちの心は、どんな境遇であれ、
平安に守られる。あれが無いこれが無いと、今の境遇に不満だろう
か。視点を天に向け、主語を主に置き換えよう。

主からの境遇であり、そこに主からの使命があり、豊かな祝福が備
えられている。主を認めて行く時、見方が変わる。不満が感謝に変
わり、どのような境遇であれ、心が主によって満たされるので、御
霊の喜びが与えられる。
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泣く人と共に泣けても、喜ぶ人と素直に喜べないところがある。主
と自分との関係に何も影響はないと苦い思いを主に手放そう。物事
をありのままに受け入れた自由な生き方を選択したい。