2020年03月22日(日)

「そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると大声で神 をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して 感謝した」ルカ17:15 



10人のらい病人が、主に大声で「あわれんで下さい」と願った。す
ると主は「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい」と言われ
た。その時10人は、まだらい病のままだ。病のまま、行って祭司に
見せるようにと。彼らは、主の言葉を信じて、まだ身体は治ってい
ないが、言われる通りにエルサレムに向かって歩き出した。

すると、何と「行く途中でいやされた」。現状は何も変わらないま
ま、主の言葉を信じて踏み出した結果、途中で癒された。奇跡が起
きた。ここで学ぶ事ができる。まず御言葉を聞く。そして見える所
はそのままだが、御言葉だけを頼りに、その通りに従うと、主がみ
わざをされる。

逆に「行け」との言葉に従わずに、治った事実を見てから、行こう
とするなら、みわざを見る事はできない。「信仰とは、望んでいる
事がらを保証し、目に見えないものを確認させるものです」の通り
に。そして治った10人の内の1人のサマリヤ人は、祭司の所へ行く
前に、まず主のもとに戻り、溢れ出る感謝を献げた。他の9人は治
った事に大喜びで家族のもとへ帰り、主から離れてしまった。

感謝を献げたサマリヤ人は「立ち上がって、行きなさい。あなたの
信仰が、あなたを直した」と、主から、身体だけでなく、たましい
の救いを受け取った。感謝には大きな力がある。感謝して行く時、
思いを超えた大いなるみわざを見る。「感謝」に、主が働かれるか
らだ。

・・・・・・・・・・・・
なぜ感謝が無いのだろう。主が下さった恵みが恵みでなく、当然に
思う。当たり前が、当たり前でない事に気づく時に、感謝が生まれ
る。十字架のご愛、主は良いお方、今までの溢れる恵み・・感謝せね
ばならない、でなく、感謝を選択する事が出来る。そして喜びを経
験して行く。