2021年05月22日(土)

「このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度 も主に願いました」Uコリント12:8



時に私たちの思いと、主のみ心が大きく異なる事がある。主は私た
ちに、祈りをもって願えと言われ、祈りを喜んで下さる。そして御
心なら、祈った通りに叶えられる。しかし御心でなければ、叶えら
れない。祈りは、物事が、自分の都合の良いようになる事ではない。
私たちは自分の思い通りにしたいとの、肉の思いが強くある。自分
の願い通りに、叶えて欲しい。

しかし、しばしば主のみ思いは異なる。例えば、私たちは、病気が
あるなら、その病気が治ることが、癒しであり、祈りの答えだと思
ってしまう。しかし、もし、その病を持ったままでも、御霊の喜び
と平安、感謝に溢れた人生を送れるようにし、証しの人生にして下
さる、それが答えであるかも知れない。祈りが聞かれるとは、必ず
しも自分の思い通りになる事ではない。

障がいを負ったある人が、主に向き合い、長く祈りに祈った末に、
最後には、もし、このままの方が主の栄光が現れるなら、このまま
で良いです、御心のままにと祈るに至った。結局は、私たちの目標
は、神の栄光が現れることだ。パウロはトゲが取り去られるよう3
度も祈ったが、主は、それが無いより、有る方が栄光が現れると言
われた。

ある人はトゲが取られ、ある人はそのままにされる。どちらも主の
栄光のためだ。私たちの「なぜ?〃」と不満の部分を今一度、御霊
の光に照らされ、受け取り直そう。あるいは、主の栄光のためでは
ないだろうか。

・・・・・・・・・
時に、祈りに、主からの「ノー」の答えがある。自分の願いとは違
うが、主のご計画なら、更に良いものだと信じられる。祈りを積む
中で初めて「ノー」の答えもわかるので、とにかく祈りに持って行
こう。祈りの中で、答えも受け入れられるようにして下さる。