2021年07月22日(木) 「イエスがある村にはいられると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた」ルカ10:38
「イエスがある村にはいられると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた」ルカ10:38
主のための奉仕は尊いし、主の喜ばれることだ。奉仕する事自体は 良いことだ。私たちも、主のために労する事は、喜びであり、恵み だ。しかしマルタは、主が飛んでしまい、恵みから出て、自分の力 で労し、目の前の仕事そのものに、目と心が奪われてしまった。主 を忘れるなら、何のための奉仕か、わからなくなる。形さえ整えば 良しと、心の伴わない義務感だけの奉仕になる。 主から目が離れると、自分中心にしか物事が見られない。すると、 自分だけが忙しい目をしていると、イライラし、周囲に怒りが湧き、 又、自己憐憫に陥り、何もしていない周囲を責め、裁いて行く。 主から離れ、恵みから出てしまうと、私たちも同様だ。恵みの下で、 御霊によって行なっていないので、非常に重い辛い仕事となる。自 分が辛い中、頑張って労しているので、何もしていない人を見ると 腹が立ってしまう。 なぜ、自分ばかりとイライラして、必ずさばく。恵みの下におらず、 律法の下にいる。奉仕はずっしりと重くて喜びも無い。働く前に、 まずは御言葉を聞き、主と交わるなら、平安と潤いをもって、労す る事ができただろう。その時、人は関係なく、自分には平安と喜び があるので、何もしていない人を見ても、さばく事もない。生き生 きと労せる。 しかし、まず主の御前に座するより、動き回る事の方が楽なのだ。 「マリヤはその良いほうを選んだのです」とあり、選択が必要だ。 選ばない限り、まず御前に座する事はできない。選んでいない自分 に気づく事から、祝福が始まる。 ----------- 急いでいる時ほど、まず主の前に静まる大切さを失敗から学べる。 主が無ければ、ただ事に仕える仕事になってしまい、今日はでき ても、明日はできない。第一のものを選ぼう。