2021年08月22日(日) 「光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行い が悪かったからである。しかし、真理を行なう者は、光のほうに来 る」ヨハネ3:20
「光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行い が悪かったからである。しかし、真理を行なう者は、光のほうに来 る」ヨハネ3:20
「人々はやみを愛した」とあり、人の古い性質は、罪を憎むのでは なく、罪を愛するとある。したくないけれど、罪を犯すのではなく、 したくて罪を犯している。誘惑に乗ってしまうのは、誘惑を拒絶す るのでなく、本当はその中にいたい。誘惑は甘く、心地良い。苦く などない。もし罪が苦ければ、誰もこれほどまでに、罪に誘われな い。 そこから出たくない。自分の内側には、やみを愛する罪の性質があ る。「できない」のでなく「したくない」と認める事から祝福が始 まる。その時、光の中だ。私達は、自分はわかっていると思い、光 を拒んでいる。わかっていない事、見えない事を認めない。しかし 光を拒むなら、暗闇の中で見えるのは自分だけだ。自己中心の世界 の中で、自分は正しく、相手が、状況が悪いとしか見えない。 真理を行なうとは、自分の罪を、自分の姿をありのまま認める事だ。 やみを愛する者であり、自分を正当化する者であることを認めて行 く。その時、その人は光の中なので、神が見える。神が見えるので、 更に自分のありのままの姿がはっきりと見えて、悔い改める事がで きる。 心のやみを照らし出すところの、御霊の光を決して拒まず、向き合 おう。いつも同じ罪を犯す原因はどこにあるのか、どの部分の弱さ なのか、自分のどこに問題があるのか、光に照らし出されて行く時 に、成長して行ける。 ・・・・・・・・・・・・ 罪の性質は「〜出来ない」でなく「〜したくない」だと言われてい る。「愛せない」でなく「愛したくない」だと。ごまかせずに、自 分の姿がはっきり見える。それを認める時、いつも前に進んで行け る。主は次の展開を与え、一歩一歩進めて、成長へと導いて下さる。