2023年04月21日(金)

「彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、『ダ ビデの子よ。私をあわれんでください。』と叫び立てた」 マルコ10:48


バルテマイは、道ばたで人々に物乞いをしていた。金銭、物を恵ん
でもらい生きていた。だから、主に「わたしに何をしてほしいの
か」と言われた時、生涯暮らせるだけの金銭を求めてもよかった。
だが主に求めたものは、金銭でなく「目が見えるようになること」
だった。それは、この方にはそれが可能との信仰があったからだ。

それが無ければ、はなから求める事はしない。彼には信仰があっ
た。その信仰は「私をあわれんで下さい」との叫びとなった。周囲
に黙らせようとされるが、黙るどころか、ますます叫び立てた。も
し、主が受け止めて下さると信じられなければ、叫び続ける事など
しない。意味の無い事だから。何より、主に求めもしなかったろ
う。

彼は本気で、必死だった。この時、この機会しかない、二度と無い
と思い、全身で叫んだ。ザアカイも同様だ。主を見るのは今しかな
い。機会はもう二度と来ないと、大人が木にまで登った。バルテマ
イは、ここであわれみをもらわなければ、生涯盲人のまま、ザアカ
イは一生虚しい喜びもない暗い日々であり、絶対にこのまま帰れな
かった。主はその心底からの切なる求めに、答えて下さった。

私たちはどうだろう。求めがあるだろうか。与えられても与えられ
なくても、どっちでもよいのだろうか。又、はなから諦めてしまっ
ているだろうか。彼は何も出来なかった。唯一出来ることが「あわ
れんで下さい」の叫びであり、求めだった。この主への求めを、主
は待っておられる。そして喜んで下さる。
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素直な求めを主は喜んでくださる。何という幸いだろう。どうせ変
われないと諦めている罪も、あわれみも慰めも素直に求めていこ
う。信仰の祈りを主に向かい献げよう。