2024年06月20日(木)

「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教え てください」ルカ11:1



祈りは、学校だと言われる。少しづつ〃主が手を取って、教え学ば
せて下さる。救われて、教会生活が始まると、指導者や先輩クリス
チャンから、祈って、聖書を読むことを、繰り返し〃まさに口すっ
ぱく教えられる。信仰生活の生命線であり、大切な事だと。最初は
余りよくわからず、とにかく他の人々が祈るように、祈り始める。
今から思えば、その祈りは、かなり自己中心だ。

しかし主はそんな祈りに答えて下さった。よくわからない中で、初
心の時は、まず主に向くようにして下さる。自分の事なら祈れるの
で、祈りに答え、祈りを励まして下さる。年月を経る中で、ある
時、祈っても〃、答えられない経験をする。そんな時、原則があ
る。「その耳が遠くて聞こえないのではない。あなたの咎が神との
仕切りとなり」と、もし罪があれば、悔い改める必要があると。

又、「願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとし
て、悪い動機で」とあり、動機が間違っているかも知れない。御霊
が気づきを与えて下さる。ある人が、御心に従おうとした時に、親
族の反対を受けた。身体を心配したためだった。しかし御心で正し
い事だと、断固進もうとし、祈りを積むが、反対は強くなる一方だ
った。

そんな状況を祈っていた時に、全く気づかなかった自我を示され
た。反対する親族に反発し、反目し、絶対に遂げると意地になって
いる自分。主のためなど、全く無いではないか。心から悔い改め
て、自分自身も、状況も、主に明け渡した。すると何と数ケ月後、
身体をいやして下さって、親族の祝福のもと、御心を行なう事がで
きた。
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祈りが叶えられると主のご愛を直接受け取るようでうれしい。でも
叶えられない祈りの時にも、大切な学びがあり、主の御思いがある
ことを覚えていたい。祈りの答えはどこにあるのか主に聞いていき
たい。