2006年06月20日(火) 「律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義・・」ピリピ3:9
「律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義・・」ピリピ3:9
私たちが労力を惜しみ、時間を惜しみ、財を 惜しむのは、まず余りにもキリストを知らな い事による。キリストの素晴らしさを知れば 知るほど、自由になり、解放される。朽ちて しまう、地のものに執着が少なくなって行く。 もし、まだそこまで、主の素晴らしさを味わ っていないのなら、まず捨てたくないし、捨 てる事は出来ない。自分の生涯を献げる事な ど到底出来ない。それで良い。捨てるべきで ない。キリストへの愛以外の動機で、何かの 犠牲を払ったとしても意味が無い。単なる 自己満足であり、更に誇り高ぶるようになる だけだ。自己満足のために我慢しただけであ って、それは主への愛ではない。自分の義で あって、信仰による義ではない。まず自分を 欺かず、献げられないなら、献げられないで 良い。無いものは無いと認めておれば良い。 主が献げる事が出来るようにして下さる。 率直で、素直でいよう。無いことを認めよう。 それが一番神に導かれやすい。 ・・・・・・・・・・・ 自分で立てて行く義は、形はそれらしく見え 外面整うが、暗闇に入りますます神から離れ るばかりだ。「出来ない」「無い」を真っ直 ぐに認めて行く時、神がして下さる。心安ら かで喜びがあり、真に神を知って行く。