2007年12月22日(土)

「ただ一つのことだけ知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです」ヨハネ9:25

イザヤ書によると、盲人の目が開かれ
る事が、メシア到来のしるしだった。
「そのとき、盲人の目は開かれ」、そ
れゆえ、この盲人が見えるようになっ
た事は、まさに預言の成就であり、心
開かれていたなら、主イエスこそが救
い主だとわかるはずだ。しかし、主が、
安息日を破ったと非難攻撃をしたパリ
サイ人は、根が悪意であり、その目で
人を、物事を見るなら、すべてが攻撃
材料となる。自己中心な邪悪な心だ。
正当な非難だと言うが、実は根にある
敵対心のゆえだ。盲人に問いただすが、
彼の言葉にも全く聞く耳を持たない。
盲人は身に起きた事を素直に話してい
るに関わらず、はなから否定してかか
る。自分は正しいとの場所に立つ時、
私達も同じだ。このような状態に陥る。
彼はスパッと、はっきりと的確に言っ
た「盲目であったのに、今は見える」
と。物理的に見えるのでなく、霊の目
が開かれて、神がわかるのだ。パリサ
イ人は自分の思いで、自分の目で見た。
「私たちはあの人が罪人であることを
知っているのだ」と。あの人はこうだ
と最初から決めてかかり、そういう態
度である以上、どんなみわざを見ても
信じる事はできない。自らの偏見、思
いを退けて、素直に主に向き合うなら、
「主よ、私は信じます」に必ず導かれ
る。
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問題は自分の心であり、歪んでいたり、
頑なだったり、偏見のメガネをかけている。
自分が正しいに立つと、一向に神が見
えない。自分が間違っているのでは、盲
目なのでは、の視点に立った時、初めて
見えて来るから不思議だ。