2008年07月22日(火)

「・・ききんがあった。そこでダビデが主のみこころを伺うと、主は仰せられた」Uサムエル21:1

ダビデの時代に3年間の飢饉が
続いた。3年間の飢饉は厳しく
辛い。その時、ダビデは「何と
か豊作に。どうかあわれんで下
さい。助けて下さい」と祈った
のではなく、主の御心を求めた。
神はその祈りに答えられ、サウ
ルとその一族に血を流した罪が
あり、ギブオン人を殺したゆえ
と告げられた。サウルが熱心
の余り、殺してしまったのだ。
そこでダビデは、ギブオン人が
求める償いを成し遂げた。正し
くなすべき事がなされた後、「
その後、神はこの国の祈りに心
を動かされた」。私たちも、幾
ら祈っても祈りが答えられない
時、原因を考えてみる事が必
要だ。あるいは、その祈りが御
心に適っていないかも知れない。
的が違うかも知れない。御心で
ない祈りは、幾ら祈っても答え
られない。ダビデは主の御心を
伺った。私たちも、もし答えら
れない祈りがあるなら、どれだ
け祈っても何の感触も無ければ、
祈り方を変える必要がある。又
、なすべき事、矯正すべき事があ
るのかも知れない。ある人は、
延々祈り続けるが、何だか感触
が無い。そこで御心を求めた時、
なすべき正しい事がわかっている
のに、恐れと不安で実行できない、
そのためダラダラと祈り続けて
いる事を示された。「前進せよ」と
示された。必要なら、立ち止まって
御心を伺おう。正しく導かれる。
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叶えられない祈りの中に神様の
御心があるのかもしれない。御
心を尋ねていこう。今やりたい
事と今するべき事は違うのでは
ないだろうか