2009年01月21日(水)

「まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、はっきり見えて、兄弟の目からもちりを取り除くことができます」マタイ7:5


問題が起きた時、確かに相手に間違いがあったかも知れない。しかし、「あなたが悪い。あなたの間違いでこうなった」と相手のちりを除こうとすると、問題は更に悪化し、糸がからまり、ややこしくなり、おおごとになる。

経験ないだろうか。相手のちりを見つけた時こそ、まずこちらがへりくだることだ。自分をよく省みて、自分にも間違いがなかったか、反省すべき点がないか、よくよく御前に静まって、御霊に照らされる事が大切だ。

「誰でも、立派でもない自分を何か立派でもあるかのように思うなら、自分を欺いている、おのおの自分の行ないをよく調べてみなさい」へりくだって、自分を省みるなら、「まず自分の目から梁を取りのけ」るなら、その時、はっきり見えるようになる。

そして、へりくだって、愛によって、相手のちりを取り除く助けができる。
目のごときデリケイトな所は、触れようとした瞬間、相手は閉じる。不用意に、祈りもなしに、こちら側の霊的整えもなしにできる事ではない。

梁は大きな材木、ちりはほんの微少のほこりだ。まず批判的な心が大きな材木だ。
相手が悪いから裁くと思っているが、実は自分の思い通りにならないから裁いている。

愛とへりくだりが無ければ、必ず泥沼になる。まず自分を御前に置いて御霊に探って頂こう。そうする時、整えられ、相手のちりを除くために、主により用いられる。
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自分のうちにある相手を裁く材木こそ取り除かれるべきものだ。相手のちりに、反応する思いを御前にうち広げ、よく祈ろう。問題の中で神様が働かれる。