悶々としたクリスチャン生活から喜びと解放へ


・・この春に霊的に、精神的に行き詰ってしまった。現在の自分、将来の事やら考えながら、クリスチャンとして、どう歩めばいいのかが、わからなくなり、仕事や対人関係で生き方を見失ってしまっていた。
いろいろなものを見て、周囲を見て、不安定になっていた。
そんな時、静かに、ゆっくり考える時期が与えられ、自分を振り返りながら、あれやこれやを、神様の前に広げて、考えていた。

そんな中で、ある時突然、神様の前にどういう姿勢でいれば良いかが、わかった。
なぜかわからないが、見えた。弱い私を、このままで、今のままで、受け止めて、受入れて下さっているのがわかった。ふっと抜けた。これでいいんだと思えた。
周囲が気になり、周囲を見て、人の目を気にして、恐れていた今までの、自分から、解放された。自由になれた。霊の目が開かれた。

前から、自分なりに、そのつど、神様の前に、ベストを尽くして歩んで来たが、頭だったと、今わかる。今年、初めて、霊をもってわからせて下さった。
神学校を出ているから、一応知識として、いろんな事を知っているわけで、人にもずっと教えて来た。
今まで知識としてわかっていた事が、初めて本当にわかった。喜びが溢れた。

私は完全主義で、妥協できずに、どうしても頑張ってしまう。完全なんてあり得ないわけで、頑張れば、頑張るほど、出来ない自分も又、はっきりと見えてしまう。
そして、その出来ない自分をいつも責める。頑張りが足らないからだと、自分のせいにして、自分の弱さを責めては、落ち込み、足らないところを、もっと頑張ろうとしてしまう。
しかし、出来ない。堂々巡りを繰り返す。

いつまでたっても、出来ない。人を愛そうとしても、その根本的なところが欠けているから、すっきりしていないから、愛せない。
そして、自分がいつも頑張っていて、もっと頑張れば出来ると思い、自分の弱さを認めないわけだから、人の弱さを認められない。
自分を受け入れてないわけだから、人を受け入れられない。人を裁いてしまう。

自分の弱さを認めた時、初めて自由にされた。
弱い自分が、負い目でなく、イエス様が、この弱い私をこのまま受け止めていて下さる、その自分の存在を、自分が完全に受け入れる事が出来た。自己受容が出来た。

昨年6月、神学校の奉仕を辞めた。それを通して、神様が私を取り扱われた。
今まで、周囲から、「神学校奉仕者」として見られ、そのように評価され、それが隠れみのになっていた。その隠れみのを取られてしまって、何も肩書きの無い自分が残った。
動揺してしまった。神学校奉仕者で無くなった、生身の自分は一体何なのか、わからなくなってしまった。
入れ物じゃなくて、神の前での、本当の自分とは一体何なのかが、問いかけられた。

そして、自分の働きは何なのだろうと、考えて行く時、神学校奉仕者、教会伝道者、牧師夫人・・タイトルを求めている自分に気づかされた。
タイトルがつかないと、不安な自分の姿が見えた。 今、自分は自由な教会に置かれて、こうやって、広島の教会を訪ねる事も許されて、海外へも訪問しに出して貰える。恵まれた環境が与えられている。

それぞれの土地で働いておられる、伝道者の方々に会って、励まし合えたり、私に与えられた賛美や証しや、大好きな、喋る事が用いられて、交われたり、このような事で、主は自由に私を、用いようとして下さっている・・そんな、みこころを感じている。

「タイトルの無い働き」これが、今の私の召しだとわかった。
完全に新しくされて、変えられた、この春が、私の信仰生活の一大転機でした。