プライドと高ぶりが砕かれて


私は海外青年協力隊で、開発途上の国に行きました。
そこで、仕事をしている中で、自分の姿をまざまざと見せつけられました。
現地の人を相手に、なかなか思うようにならない事態を前に、イライラが募りました。 そんな中で、現地の人を劣っていると、心の中で見下げている自分に気づきました。 その自分に愕然としました。
なぜなら、自分は、決してそのようにはならない、そんな自分ではないと思い、信じていたからです。大変な大きなショックでした。
してあげるという高慢な態度で、来ていた事を見せられました。自分に失望しました。

その時に、そんな、自分て、一体何なのだろうと、真剣に、悩み考えました。
そんな時、三浦綾子さんの本を読みました。心にぐいぐい入って来ました。
殺人や、盗み等、外側の罪が罪だとしか思ってませんでしたが、内側の妬みや憎しみや そんな心の中の思いが、罪だと書いてあって、自分は罪人だとわかりました。

聖書を読んでみたいと思いました。
神様とイエス様って、何となく以前から聞いた事があるが、違うのだろうか、同じなのだろうか、知りたいと思いました。
信じれば、救われると書いてあるが、救われたいと思いました。
嫌な醜い自分がきよめられたい、神様知りたい、助けて下さいという感じでした。

その頃、友人に教会に誘われました。友人はクリスチャンでした。
何気なく行った現地の教会でしたが、言葉の事がありますが、メッセージは何となくわかりました。賛美も何となくわかり、涙が出て来ました。

同じ頃、日本から来た宣教師の先生が隊員達を食事に誘って下さっていました。
食事に招かれて、そこにあった聖書を見ていたら、持って帰っていいよと言われました。
読みたかった聖書が与えられ、一人で読みました。そして、その頃、福音を聞いて、救われました。

信じて救われた後、神様の取り扱いがありました。
どうしても受け入れられない人が、目の前に置かれました。嫌いで、嫌で、拒否反応が起こります。悪いと思いながら、どうしても受け入れられないのです。

向こうも謝って来られ、相手は自分のせいだと言われるのですが、そう言われて、ますます余計に、その人が、受け入れられなくなりました。
きっと自分のプライドが、グサリと刺され傷ついたのだと思います。
自分が悪いのに、謝る事ができない、そんな自分が、相手に見透かされている。
相手は、私をクリスチャンだと知っている。あんな人でもクリスチャンなのかと、思われていると思うと、ひどく落ち込む。悪い証しをしていると思う。
取り繕っている自分は苦しいです。苦しい日々でした。その人を受け入れられない状態で、協力隊員の期間が終り、別れました。

そして、御言葉を読んでいる時に、その人をさばく御言葉ばかり取っている自分に気づきました。
神様にその人が悪くて、自分は悪くないと言って欲しかったのです。
そういう読み方をして、自分を正当化し、御言葉を使って、その人をさばいていたのです。
だいぶたって、それこそ、自分だと見せられました。もう愕然として、自分が恐ろしくて、恐ろしくて、もう立っておれませんでした。
今まで彼女が悪いと責め続けていたのが、今は自分の罪を示される。
恐くて、恐くて、こんな私は神様に近づくが出来ないと思いました。
クリスチャンだということすら、いけないと思いました。もう、苦しくて、苦しくて、悶々とした中にいました。

そんなわけで、帰国してから、1年間、教会へ来れなかったのです。
でも行かない事に対してもますます落ち込み、もう、悶々とした、真っ暗な、どうして良いかわからない身動きの取れない状態にいました。
現地の宣教師の先生にも、何回か手紙は出していたのですが、心の内の事は書けないまま、一人で思い悩んでいました。
今思えば、悩みを打ち明けて、相談していたら良かったのだと思います。
きっと、先生の方から、こちらの先生に連絡して下さって、良い導きと指針が与えられただろうにと、思います。

そんな時でした、クリスチャンの友人が、彼女が行っている教会で、特別な宣教大会があるからと誘ってくれました。私は、行ってみることにしました。
その時でした。その集会で、どの御言葉という事なく、そのメッセージ全体を通して、自分の内の頑固で、頑なな部分が、砕かれるのがわかったのです。
音を立てて、その時、何かが崩れました。

神様の怒りでなく、赦されている、愛されている、受け入れられている、このまま、 あるがまま、罪あるままの、私が受け入れられている・・その事が、なぜか突然、はっきりと目が開かれたように、わかりました。

砕かれるんだけど、それでいいんだと、わかりました。
はっきりと、こんな私が、このままで、受け入れられている事がわかりました。
目が開かれたように、“罪人”のために、来られたイエス様がわかりました。
心にピッタリ来ました。だから、これでいいんだ、だから、救われたのだと、本当に目が開かる思いでした。
前は、神様への恐ればかりで、近づけなかったのですが、紛れもなく、あの十字架はこの私のためのものだったと、真にわかりました。
こんなにも愛されている、神様の愛がわかりました。赦されていることを実感しました。喜びが溢れました。

それで、教会へ行こうと思い、今回このように来る事ができて感謝しています。
教会の兄弟姉妹達と一緒に、祈りや交わりの中で、私もこれから建て上げられて行きたいです。