<神様の恵みに生かされて>

  わたしは、主イエス様を信じています。私の主人も同じように信じています。それで、家庭は天国にいるような、幸せな気持ちで生活させてもらっています。私はイライラしたり、腹が立ったりしている時は、口数が少なくなる傾向があります。

特に、主人に対してはそうかも知れません。上の子2人がまだ小さかった頃、母乳だったので、夜、よく起きました。又、夜泣きをする事もあって、自分にとって睡眠不足でした。 深夜12時とか、1時、私は寝れないで、子供を抱いて、立ったままあやします。 主人は・・というと、下の階にいて、将棋が好きなものだから、ファミコンで、一人で将棋をして遊んでいます。

夜のしじまに、ファミコンの「ピコ」「ピコ」という、かん高い電子音が、2階まで伝わってきます。 「私は、こんなに寝れないで、子供をみてるのに、ファミコンをする時間があるんだったら、代ってくれてもいいじゃない!」と心の中で、ブツブツ。腹が立って仕方がありません。でも、そう言えば、聖書の言葉に「すべての事について感謝しなさい」という言葉があった。 そうか、感謝をしなければならない。では、「神様、感謝します」口先では言いますが、 心の中では、クソーと思っています。又、その思いを打ち消すかのように、「神様、感謝します」 (あ〜でも、腹が立つ)それの繰り返しです。

私は、聖書の言葉を、知らず知らずの内に「人の教え」のように受け取っていました。 「神様、出来ないから助けて下さい。私には、出来ないから出来るようにして下さい。」ではなく、「神様の言葉だから、守らなくてはならない。よし、頑張って、自分で守ろう。」という態度だったのです。

しばらくして、将棋を楽しく終えた主人が、足取りも軽やかに、トントンと2階に上がって来ます。 そして、襖を開けて、「あれっ、まだ起きとったん?」と言います。 私の方は、「まだ起きとったんじゃないでしょ。私だって、寝たいのに、起きざるを得なかったんでしょ!」と言いたいのですが、口には出さず、ぐっとこらえて、何も言いません。 何も言わないので、主人は、何かを感じ取って、「何か、あったん?」と心配そうです。 そして、ついには、「僕、何か悪い事したん?」です。主人の方は、全然、気がついていないのです。 私も、主人や神様に、正直に自分の気持ちを伝えれたら、よかったのに、自分でも気づかずにいた、私の頑固さが、それをさせなかったのだと、思います。

そんな、名ばかりのクリスチャンで、今も、生きて働かれる、イエス様の力やご愛の素晴らしさを、ちっともわかていない私でした。が、神様は、そんな私にも、やっぱり時間をかけて教えて下さいました。 ある時、ある機会を通して、私は、ある方々から、あれやこれやと注意を受けました。 それは、自分にとっては、不当な注意で、反発したい感情がメラメラと湧き上がりました。 それをこらえて、その方々には、一応、「ごめんね」「悪かった」と、口では謝りましたが、心の中では、「まあ、よく言うよ。何で、そんな事が言えるん?私達だって、隠れてこれだけの事をしてる。それで、あなた方も助かったはずでしょ。それに、自分の事は棚に上げて、人の事ばっかり。自分達だって、勝手な事してるじゃない。私達が言わないだけで、お互いさまじゃない。」

心の中では、「ごめんなさい」と思ってないし、思えないのです。 「神様、そりゃ、私も悪いかもしれん。でも、相手だって、悪いでしょ。いや、相手の方が悪い。私は、ごめんねと、口では言ったけど、本心は、そう思っていません。」と、2、3日ずっとブツブツ心の中で、神様に向かって、つぶやいていました。 そんな時でした。朝、お茶碗を洗いながら、一人で神様にブツブツ言っていると、イエス様が十字架につけられた時の、イエス様の言葉、「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは何をしているのか、 自分でわからないのです」という言葉が、突然、光が射し込むように、私の心に、やって来ました。

その時、私は、聖書の言葉を思い出そうとしたわけではないし、聖書を読んでいたわけではありません。それなのに、思いもよらないところから、イエス様の言葉が来たのです。 その瞬間、「彼ら」が、「私」だということ、そして、そんな私が、イエス様を十字架につけた事、そしてそんな私のために、イエス様が、「父よ、彼らをお赦し下さい」と祈って下さっている事が、はっきりと素直に、わかりました。

「神様、相手の方ではなく、私が悪かったです。私を赦して下さい」と、心から神様に祈る事が出来ました。この思いは、私自身のこれぽっちの良心とか、そんなものから出てきたものではないこと、私自身の外側から、神様から、来たものであることが、はっきりとわかりました。

自分の心を、聖書の規準に、そのように、自分で努力して、変えなければ・・と思っていた私は、的はずれでした。 自分で変えよう、変ろうとする事なんて、表面的には、出来るかも知れないけど、自分の心の秘密や、自分でも気づいていない部分が、必ずあって、そこのところは、他人も、自分も変える事が出来ない事がわかりました。変えようとすれば、ますます泥沼にはまって行くように、他人をさばき、自分をさばきます。

だけど、感謝な事に、私達を変える事の出来る、変えて下さる、神様がおられる事もわかりました。ああ、この神様に、安心して、自分をお任せして行けばいいんだ、ということが、今、やっとわかるようになりました。

うちの子供達は、毎週日曜、教会学校に行かせて貰っています。色々な聖書のお話を聞いて、帰ってきます。 最近、我が家に、異変が起こりました。いつもじゃないけど、時々、3人が欲しい物を譲り合うようになったのです。

美味しいおやつや、おもちゃ等。 今までは、とても考えられない事でした。たいてい熾烈な戦いがありました。ジャイケンは必ずやるし、「先に取ってもいいよ」との言葉が、特に3人の中でも、一番言わなかった、真ん中の子から、出るようになりました。

「どうして?」と私が聞くと、「だって、神様が喜んで下さるもん」と答えます。 すごい!と思いました。これが神様を信じる事なんだと、子供を通して教えられます。 又、「人格」は、神様の言葉によって、形造られて行くものなんだなあと、子供が変えられて行く姿を見て、感じています。