罪赦された喜び

          

                            私はキリスト教の学校に学び、教科書として聖書に接しました。神社や仏の前で手を合わせていた対象が、 イエス様に変えられた程度の感覚でしたが、私達を優しく、見守って下さる大きな力としての神様があると、 単純に受け入れました。
教会の様々な人達との交わりも楽しく、しばらく通っていました。高校、短大の間は 離れてしまいましたが、教会の幼稚園で働く事になり、再び教会へ行くようになりました。 この時も、若い人達との交わりが楽しく、完全に仲間になりたいとの思いで、 洗礼を受け、教会学校のお手伝いまでしました。

けれでも、クリスチャンですと断りながらも、未信者の人と、神前結婚するといういい加減さでした。 後にも先にも、1回切りの見合いで、簡単に結婚してしまったんですけれど、夫のテレて、決して 男前とは言えないスナップ写真だったのに、なぜかこの人と結婚すると決めた人に会いに行く 気持ちでした。(後日、主が導かれた事だったとわかりましたけれど)

結婚後も、私はクリスチャンという思いがありましたので、細々と教会へつながっておりました。 その頃の私の理解は、クリスチャンは色々苦しい体験をして、神様にすがり、助けられた人との 認識でしたし、その話が人の心を打つものと思っていました。

ある時、教会の婦人が、貧しい生活の中、妹さんのお世話のために、お子さんを中絶され、 その苦しい体験から、次に妊娠された時、ご主人が何ケ月も口をきいて下さらなかったのに、 生んだそのお子さんを可愛がってくれる様子を見て、感謝していると、泣きながら話して下さいました。

私は語るべき体験は何もなく、クリスチャンとしては、何ほどの者でも無いと思っていたのですが、 この幸せを感謝すれば良いと示されました。引越しを機会に完全に教会を離れ、 3人の娘を育てるのに一生懸命の日々を過ごして来ました。

何年かの後、私も同じ事をしてしまったのです。本当に「産みたくない」と思ったのです。私が言わなければ、誰にもわからないと思いました。婦人の事も忘れてしまっていました。この事は戦前では犯罪でした。今では女性の当然の権利のように言われ、誰でもやってる事じゃないと言う人もあるくらいです。戦争に出れば、人を殺す事が手柄となります。人の罪意識は、時代によって人の心によって、どうにでも変わります。(聖書では変わらない罪が示されています) 神様はこの事を通して、神の前にある私の罪を示して下さいました。子供の手が離れるにつれ、後悔し、済まない思いで、自分を責め苦しみました。その苦しい思いを夫にしかぶつけられなくて、夫を責めてばかりいました。そんな時、主は子供達を教会へ導いて下さいました。

毎週、毎週、とても喜んで教会へ行くのです。私はクリスチャンという事を、小首にも出さないようにして暮しておりましたが、「神様は私に教会に来なさい」と言って下さっていると思いました。聖霊様が働いて下さった事を、ハッキリと感じる事が出来ます。 夫に、又、教会へ行きたいと申しますと、許してくれましたので、再び教会へ行くようになりました。ちょうどその頃、家を捜していたのですが、不思議な経験をしました。1日中捜し回って暗くなる頃、疲れてはいましたが、それでもと、寄った所が気に入って、すぐに決めました。遠方まで捜したに関わらず、今まで住んでいた所から余り遠くありませんでした。

教会は近くに決めていたのに、幼稚園のバスを待っている時、婦人が下さった案内に「せっかくですから、行ってみます」と心動かされたのが、バプテスト教会でした。 そこで、神様の目には、嘘をつく事、人をバカにする事も、その人を抹殺しようとする思いであって、人を殺す事になる、心にある思いが罪を犯すのであり、神から離れている事が罪である事を知らされました。神は正義の方であるから、罪のある人をそのまま天国に迎える事が出来なくて、死んだ後に、地獄に行かせると聖書にあります。 天国には、到底行く事の出来ない私を、神様は愛によって、十字架のイエス様を自分の救い主として信じる事によって、天国に行く救いの方法を備えて下さった事わかり、信じて、バプテスマを受けました。ローマ10:9 この罪を神様には告白しても、人の前で告白する事は出来ませんでした。夫が救われていませんでしたから、夫の名誉のために、今は言えませんが、夫が救われたら告白しますと、祈ったのです。

夫が救われる事を祈りながら、定年でゆとりが出来たら、教会に行ってくれるだろう。子供が可愛くて、クリスマスなど見に来たり、牧師の顔を見るつもりで、教会に来たりしていましたが、信仰に関心を持ってくれるとは、思っていませんでした。そんな私の思いとは関係なく、夫が思いがけず、早く救われたのです。 私は告白の事を思いました。勇気がいりました。ある牧師が、罪の告白するのに一番告白したくない人にした。(他の女性と同棲していた事を、婚約者に話された)と書いてらっしゃるのを読んで、私は同じ年頃の子供さんを持っている婦人達に、告白すべきだと示され、祈っていたら、婦人集会の時、機会が与えられ、意を決して告白しました。

けれども、教会での働きも与えられ、新しい方を親切に迎え、家庭生活も幸せでしたが、どこかに、偽善者、「そんな顔していられるの?」という思いが消えませんでした。いつも罪をごまかしているようでした。 ダビデが部下の妻と姦淫し、子供が出来て、その事をごまかすために、部下を前線に送って、 死亡させ、自分の妻としてしまった、けれども、その子供は死んでしまいました。 ダビデは、この罪を示され、悔い改めた時、主はダビデを許されて、ソロモン王となる子供を与えられた所の学びによって、私の罪も完全に赦されている事が、はっきりわかり、この時は苦しい事としてでなく、喜びの証しとして、婦人達の前で告白する事が出来ました。

心の傷となっている罪も、喜びの証しとして、用いて下さった事を感謝致します。無意識に人を傷つけたり、感情的に子供を叱ったり、幼い頃の不満を引きずっていたり、様々な罪を思います。すべての事を、許していて下さる事を覚えて感謝で一杯です。神の子供として迎えられているのですから、何事も、主にお話して示された通りに、生きて行きたいと思っています。

「神のなさることは、時にかなって美しい」夫の救われた事、娘達の事、すべてに私の大切なドラマがあります。「神のよくして下さったことを、何一つ忘れるな」と言われます。 箴言31:26「彼女は口を開いて、知恵を語る。その舌には慈しみの教えがある」この御言葉を覚えつつ、子育てをして来ました。これからも、この御言葉を理想にして、用いられたいと思っています。