夫は陸橋を上がったくらいで、胸の痛みを訴えるようになり、検査入院する事になりました。
私は広島へ来るべきか、主に問うておりましたが、2月に夫のアパートに来て、 いつもの様に、食事の支度にかかろうと、冷蔵庫を開けた途端、胸にこみ上げるものがあり、 その場に手をついて、声を出して泣いてしまいました。いつもと違って、部屋中に、夫の思いが満ちているのを感じ、主の答えを確信しました。
夫の狭心症は、軽いもので、入院も1週間で済み、感謝して、3月に私も一緒に広島に来ました。
ところが、来て2週間、母が待っていたかのように倒れて、緊急入院、胃癌である事がわかりました。
医者は、しなければ1年の命と、手術を勧めましたが、高齢ですし、母が嫌がったので、 2ケ月の入院で帰宅しました。その母の世話をするのに、兄達の希望もあって 「母が、長くないなら、せめて最後の世話をして上げたい。条件的にも私達しかいない」 そんな事で、同居する事になりました。けれども、同居した途端、私達の立場の認識が全く違っている事が、わかりました。
私達が世話をして上げるのでなく、私達が、厄介になるという立場だったのです。私は、30年近く、 一家の主婦として自己を中心に、幸せに、満足して暮らして来ていました。
それが、急に母と娘(親子)の関係に、引き戻されてしまったのです。あくまでも、母が中心にいて、 私達は、母中心に来た兄達の周りに置かれている、存在に過ぎなくなってしまいました。
ただ従うだけの生活に戻された時、幼い頃抱いていた母への感情も、一気に戻って来てしまいました。 実際、兄達との関わりも何も変わっていない事に気付きました。早く出たいと思っていた家、 間違っても、同居するなんて言うまいと思っていた親、子供の頃、親ゆえに、淋しかった事、 悔しかった事、満たされなかった思いに、振り回されてしまいました。毎日の生活態度にも表れてしまいます。すると、子供の頃のように、叱られてしまいます。
兄は、大人になれと怒るし、どうしようもない気持ちです。私は、自分のこの気持ちに唖然としました。 もし、愛がなければ・・何をしても虚しい、パウロのこの言葉が私を責めます。婦人会や、祈りの場で話せる事は、本当に感謝でした。先生が「神様が心にあるものを吐 き出させて下さって、本当の自分をわからせて下さってるんですよね。感謝ですね」と 言って下さいました。
そして「自我=罪との戦いは、自分の力では勝てない」とも言って下さいました。 それならば、この気持ちを抑え込むのでなく、暫く、主に委ねてみようと思いました。ある時、母に気持ちをぶつける機会を与えられました。母は、私の思いを全く理解しようとしなかったし 「何の不足があるのか・・」「いじめた事はない・・」「今謝れというのか・・」 「信仰して教えられてるんじゃないの・・」「早く死ねと言っているようなものだ」 そんな事を言っておりました。
私の求め続けて来た母子関係と、母の思う関係が全く一致しない事を、認識させられました。
「年老いた母を悲しませてはいけません」「母を喜ばせよ」「父母を敬え」、次々に御言葉が浮かんで 来ますが、わかっていても、わかりたくない、そうして上げたくない、母を憎む理由を一生懸命考えて いる・・そんな葛藤を繰り返していました。先生は「お母さんは変わりません。受け入れるしかありませんよね。」と言われました。
学びの時間に、“私たちの戦いは、血肉に対するものではなく・・悪の霊に対する戦いである” という事を教えられました。
私は、サタンに振り回されている事を示されました。又、夫に話している時「私は、今、醜い顔を しているんだろうな」と思いました。時を待って、聖霊様が示して下さった事が良くわかりました。 今まで、何をやっていたんだろうと、いう気持ちになりました。そして、平安が与えられました。あんなにいきり立っていた思いが、今、書こうとすると、なかなか 思い出せない・・不思議な経験をさせて頂いております。
ある日、兄の思い違いから、ひどく叱られた事がありました。何の弁解も聞いてくれません。
昔のように、悔しくて涙が出ました。でも、昔なら誰もかばってくれず、犬に当たるしかなかったのに、 今度は、夫が話しに行ってくれました。主が、どんな事でも目を留め、備えていて下さる事を改めて覚え、 感謝しました。その夫に、つぶやいてばかり、母や兄達の事を悪くばかり言って、我慢して聞いてくれた夫に、悪い事を したと思います。楽しくない生活を押しつけてしまって、申し訳なく思います。
傷が治っても、跡が残るように、全く解決したわけではありませんが、その跡も、やがて薄れて行く ように、主が癒して下さる事を感謝します。広島に来た事は、本当に神様のご計画であった事がわかります。私の心の奥にあった 問題・・「罪」の事をよくわからせて下さいました。又、祈ること、祈り合う事(執りなしの祈り)の 大切さも、身を持って学ぶ事が出来ました。 後になれば、もっともっと良くわかるでしょう。感謝です。