[信仰体験談バックナンバー]

崩壊した家庭が、建て直されて


私は、自己顕示欲の大変強い子供でした。

優秀な姉と、常に比較されて育ったせいだと思います。 又、私は、何もかもが、姉に劣っていたので、劣等感のかたまりでした。
その劣等感の裏返しで、絶対に人より上でなければならないとの、強迫観念がありました。
自分が、中心でなければ気が済みませんでした。いつも不安で、不安定で、この大きな劣等感に、自分がおしつぶされそうでした。
学生時代も職場でも、自分が常に中心、すべてを支配していないと、心の安定が保てませんでした。

やがて、主人と結婚して、アメリカへ渡りました。 そこで、やすえさんという女性と、家族ぐるみで付き合いました。
彼女は大変にわがままな人で、彼女の夫もわがままで、その夫婦は、いつも喧嘩していました。
そんな彼女でしたが、階上に、クリスチャンが住んでいて、彼女もクリスチャンになったのです
みるみる内に、驚くばかりに変って行きました。

しかし、私はその頃、もう仕事に、のめり込んで行ったので、彼女とは接触は、全くなくなっていました。

そんな時に、私は妊娠して、切迫流産になりました。世話になれる人がなく、 そんな窮状の時に、頭に浮かんだのが、やすえさんでした。
困りきって、事情を話し、頼んでみました。 すると彼女は、寝たきりの私に、自分の家を解放し、至れり尽くせりの介護と、好意と親切を与えてくれたのです。
何で、どうして、こんなにも、彼女が変われるのかと、その時、強烈な印象を受けました

そして、寝ている私のそばに来て「お祈りしてもいいか」と、彼女が言ってくれました。驚きました。私はその時、 彼女との祈りで「神様、助けてくれるなら、何でもします」と心の中で叫びました。

そんな事があって、子供が生れたら、私も教会へ行きたいと思いました。
しかし、夫にそれを話すと、彼には彼なりの考えがあって、反対されました。

そして、その後、引越しする事となったのですが、その先が、なんと、隣家がクリスチャン家族だったのです。
彼らは、それは親切で、よく助けてくれました。
そうこうしていると、明日はイースター礼拝だからと、教会に誘われたのです。


私達は、夫婦で教会へ行きました。
説教が、心に強く響き入って来ました。心臓が、高鳴り続けました。
信じたいと思いましたが、恥かしくて出来ませんでした。 牧師はそれを感じ取ったようで「信じたい人は、その場で顔を上げなさい」と言いました。
その時、私は、はっきり顔を上げました。すると、隣の夫も、同時に顔を上げていました
もう感謝の涙でいっぱいでした。夫婦同時に、救われたのです。


そして、私はその教会で、よく奉仕をしました。が、私の心の中は、全く変わってはいなかったのです。
信仰生活における『成長』というものが全くありませんでした。
今思えば、「私を変えて下さい」との心の態度で、神様に、一度も向かった事がありませんでした。
自分の都合が悪いとシャットアウトし、自分の欲望を遂げて下さい、との態度でした。

外側は、熱心で、忠実なクリスチャンでしたが、内側は、何も変ってはいなかったのです。 そんな私に引き換え、夫はどんどん成長し、変えられて行きました。
元々温和で優しい人でしたが、救われてからは、フルタイムで奉仕するのが当然と思うほどに、内側から真に変って行きました。
私はそのままでしたが、生活自体には大きな問題もなく、守られて平穏無事に家庭生活を過ごしていました。


そんな時でした。突然、新しい仕事の話がきたのです。
パスターは反対しました。しかし、世的な欲望、自分の思いを選んでしまい、みこころから離れてしまいました。
「どこに行っても、教会なんてある」との軽い気持ちでした。
新しい教会へ行きました。が、自分がその教会を受け入れられず、嫌で、嫌でたまりませんでした。

結局、私は、以前の教会のフレンドリーな人々を愛していたのであって、神様を愛していたのではなかったのです。
人しか、見てはいなかったのです。
やがて、2番目の子供の妊娠を口実に、一切行かなくなってしまいました。

私が教会から離れたと同時に、夫婦間も、気持ちが少しずつ離れて行きました。
そして、夫に対する気持ちが、どんどん冷えて行きました。
私は、仕事に逃げ場を見い出しました。


華やかな仕事に、のめり込んだ私は、その仕事の世界で夢を見るようになりました。
劣等感が自分の存在の根底にありましたから、すべてのものが劣等感の対象となり、夫も、自分の劣等感でした。
仕事上で、次々と財界のオーナーや有力者と会い、接する毎日だった私は、自分が錯覚と幻想の世界に迷い込んで行きました。
夫が、つまらなく見えました。何で、ただのマリンと結婚したのだろう。
自分の親も、自分も、自分の夫も、何もかもが劣等感となり、深い、癒されない劣等感のとりことなり、 ますます泥沼に深くはまり込んで行きました。

仕事で、どんなに賞賛や評価を受けても、何も満たされません。
華やかさの陰で、癒されようのない虚しさの中にいました。
何がどうなれば、よいのだろう。離婚して、夫が変わればよいのか、いや、そんな事ではだめだというのも、わかっていました。

あらゆる事が錯覚の中に混乱していました。もう、自分の事しか考えられませんでした。
夫に面と向かって、夫を劣等感に感じていることを、口にしました。
今まで、私を自由にしてくれていた夫でしたが、私の言葉に、不安を抱き、拘束するようになりました。私は、そんな夫が、 ますます嫌になって行きました。

その時点から、私は、夫を見下すようになっていました。
冷え切っていました。何の感情もありませんでした。
罪意識すらありませんでした。心の底から虚しく、イライラして、虚栄と虚勢の中にいました。

何もかもが、秩序を失い、方向を見失い、的をはずれて、壊れていました。
夫の心はどんどん荒れて、すさんで行きました。
お酒にのめり込んで行きました。私の態度が、ますます、彼をそうさせて、追い詰めて行きました。
私の心も、もうすさみ切っていました。歯車が狂い、もう、何もどうする事も出来ませんでした。


そんな状況の中で、夫に突然、岩国転勤が言い渡されました。
すでに離婚を心に決めていたので、私は、岩国へ来るつもりは無かったのです。
夫が岩国に立つ時、私の大の親友が東京にいるので、寄って骨休めするよう勧めました。
いよいよ夫が、日本へ立とうとする時も、「じゃあ、行くから」との夫の最後の言葉にも、私は無言でした。


その親友から、すぐに忠告の国際電話を受けました。
彼女に、夫が泣きながら「彼女から愛がもらえない。今回来なければ、もう追わない。」
苦しい心情を吐露したと聞き、大変なショックでした。
我に返った瞬間でした。彼の感情など考えた事が一度もありませんでした。
ただもう、恐くて、恐ろしくてたまりませんでした。
すぐにその場で、仕事を辞し、とにかく岩国に飛んで来ました。もう一度、やり直そうと思いました。


しかし、岩国へ来るには来ましたが、自分自身が何も変わっていません。
ですから、最初の1年間は、もがき、あがき、全くの苦闘の中にいました。
精神的に苦しい日々でした。
この世の成功だけを求めて生きて来て、クリスチャンとしての基盤が全く無く、教会へ来ても説教も、何もわからず、何の感動もありませんでした。

悶々とした日々を過す中、虚しくて、何かに打ち込みたくて、岩国でも、仕事を始めました。
が、仕事に対する欲望には限りがなく、平安など全く知らずに過しました。
アメリカで、自分がいかに成功したかと、話す事に夢中になっていたので、教会の中でも、友達が全然出来ませんでした。
そして、そんな時に、一つの大変な事件が起こり、自我が大きく砕かれました。
「神様、ごめんなさい」と心の底から叫んでいました。涙が止まりませんでした。


その時から、日本人集会に出席するようになりました。
以前から、何か心惹かれるものを感じながら、心がつっ張っていて、素直に行けなかったのです。
そこで、芝山夫妻と出会い、どんどん親しくなって行きました。
毎週、欠かさず出るようになって、初めて、自分の内で、御言葉が生きたものとなりました。
生き生きと、自分が、真に『生き』始めるのがわかりました。
いのちとなって、溢れ出ました。霊的な事柄の意味が次から次へと、まるで洪水のようにどっと押し寄せ、一つ一つが本当に心から理解できました。
目が開かれました。どんどん、どんどん、驚くばかりの勢いで、霊の糧が吸収できました
すべてが、何もかもが、新しいものでした。
私が信じていたものは、これだったとの確信が心に湧き上がり、嬉しくて、嬉しくてたまりませんでした。
喜びが心に湧き上がり、暖かい温もりで心がいっぱになりました。 余りの私の変わり様に 夫も、周囲も驚きに、ただただ目を見張るばかりでした。


ある時、一人、家にいた時でした。
ものすごく強く神様の臨在を感じました。神様が近く感じました。すぐそばにおられました。
今まで、自分が何をしてきたか、どれだけひどい、どんなに恐ろしい罪を犯してきたかを語りかけられ聖霊様が、次々とはっきりと示されました。
その時初めて、本当に自分が、どんなにひどい恐ろしい罪人かということがわかりました
もう恐くて、恐くて、恐ろしくて、もう表現のしようが無いほど恐ろしいでした。

その時、一人ひざまずいて、泣きながら、今までの事を一つ一つ神様に赦してもらいました。 罪を全部、イエス様の十字架の血潮で、取ってもらいました。
イエス様が、私の心を全く支配して下さいと祈りました。
それを境に、揺るぐことのない確信が与えられました。


何よりも一番の感謝は、岩国へ来れたことです。
来た時は、離婚寸前、心も、信仰も、家庭も、何もかも、もうすでに崩壊していました。
こんなにも、家庭が、夫婦の信仰が、建て直されて、整えられて、一つとなって、喜んで次の任地へ出て行ける。
もう感謝しかありません。こんなにも、私を変えて下さった、神様は素晴らしいです。私を変えるために、次のステップに進ませるために、この岩国での取り扱いと、芝山夫妻との出会いが、私に必要であり、私のために、備えられていた事がよくわかります。

岩国に来た、測り知れない深い、神様のご計画があったように、ワシントンでも神様の目的があるので、信仰もって新天地へ行きます。


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