[信仰体験談バックナンバー]

自分の力でなく、聖霊様の働きかけにより


子育ての中で、自分はそうしたくないのに、子供を叱ったり、ひどい事をしたりと、自分でも、どうしようもない自分があることを感じていました。
そんな時、聖書を開いたりしていました。 「親業」というのも勉強して、良い親になりたいと努力しましたが、実際には、又、同じ事の繰り返しで、苦しんでいました。

そんな時、教会に誘われ、“行ってみよう”と、思えました。 始めの頃は、いろいろ宗教がある中で、なぜ、キリスト教なのか、とか、神様って本当にいるの? とか、いろいろな疑問や迷いが生じてきました。
その中で、聖書を読み続けること、祈り続けることを、教えていただき、毎日祈りました。
本当にイエス様を信じれない、ありのままの自分をさらけ出して祈っていくと、どんどん、自分の罪が示されました。

私は、自分は、けっこう真面目で、人のために何かをするのが好きと、思っていました。
ある時、近所の人に、あること、無いこと悪口を言われ続けるという状況に陥りました。
痛くて、辛くて、ひどく精神的にまいりました。 又、自分がよかれと思ってした事が、相手にはそう映らず、迷惑だったりしたことがわかり、落ち込みました。
本当の自分が見えなくなりました。生きる意味や価値も、わからなくなってきました。
人のためにしていると言いつつ、人に嫌われたくなくて、いい子ぶり、実は自分が大切だった、私だと気づかされました。

自分の中で、聖書の御言葉に従いたいのに、出来ない私。 自分のしたくない事をしている自分。
神様はローマ7:16、17で、“もし、自分のしたくないことをしているとすれば、律法は良いものであることを認めているわけです。ですから、それを行なっているのは、もはや私ではなく、私の内に住みついている罪なのです。”と、私の中にある「罪」を示して下さいました。

私にとって、これまで聖書は、“教えの書物”でしたが、初めて、そうじゃない、イエス様ご自身が、私のために示して下さった、生きた命をもった言葉として、私の中に、ぐいぐい臨んで来ました。
自分が罪人で、イエス様が、こんな罪深い私のために、十字架について死んで下さったこと、心からその事を信じることができました。

それでもまだ、自我の強い私は、聖書にあるような立派な生き方は出来ないと、自分との葛藤が始まりました。
神様に従う者になれないと、とても苦しくなりました。その事を祈り続けました。
本当に神様の力は不思議です。祈って行くと、答えが与えられます。
箴言3:5、6“心を尽くして主により頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。”の御言葉を読んで、 ハッとしました。胸がしめつけられる思いでした。

私の力で、自分が変わるのではなく、神様が変えて下さるのだと、初めて気づいたのです。
私の力で、神様に従った生き方をするんじゃないんだ。聖霊様が変えて下さるんだ、そう思ったとたん、心がすっと軽くなりました。
そして、本当に自然に、自分でも信じられないくらい、聖霊様の働きかけがあり、心が招きに応じ、イエス・キリストを信じることが出来ました。不思議でした。
自分が罪人であること、イエス様が私の罪のために、十字架で死んで下さったこと、三日目によみがえって下さり、今も生きて、私達に永遠の命を与えて下さったこと、はっきりと信じることができました。

救いを得ることができてからも、バプテスマを受ける決心をするまでに、また、少しの時間がかかりました。
夫、家族の反対を理由に、私は決心できず、一つの所にとどまっていました。

神様は、私に、出エジプト14:13、14で、

“恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。あなたがたは、きょう見るエジプト人を、もはや永久に見ることはできない。主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。”

という御言葉を示して下さいました。

私は自分の中で、バプテスマを受けたいと、決心はしていましたが、迷っていました。
「前進せよ。」と、主は、「私を信じて前進せよ」と、おっしゃいました。主は、私達の進むべき道を備えて下さっている、だから、迷わずに前進するようにと。
反対を理由に決心が出来なかったのではなく、それは口実であり、本当は、自分自身が前進を恐れていた事に、気づかされました。
何もかも主にゆだね、主に従って生きる決心が出来ました。