喜びが無い、どうして?

一人の姉妹が話してくれました。

「何かね、心が、こう、どよ〜んと、よどんでるんです。喜びがなくて、何かうつろで。
それで、教会に来て、御言葉聞いたり、祈ったりしたら、心がすごく明るくなって、喜びが湧いてくるのがわかるんです。
でも、毎日、過ごしていると、流されるんですねえ。デボーションもしようと、思うのに なかなか、出来なくて、なんか・・落ち込んでしまって。

職場でね、同僚の人が、浄水器を勧めてくれるんです。
自分が使ってものすごく、良かったからって。今の水道が、どんなに汚れているかを、説明してくれて、すごい説得力なんですよ。
それで、真剣に、もう一生懸命、すごい熱意で、勧めてくれるんです。別に自分に何の利得もないんですよ。

この人、浄水器で、なんでこんなに、一生懸命になれるんだろう、って。
それに引き換え、私は、本当の神様を知っているのに、全然、人に言えない。
言う気力も、喜びもない・・そう思うと、又、又、すごく落ち込んで・・」(なんか、わかる気がする・・)

「今日、メッセージ聞いてて、私、わかった!なんでかが、わかったんです!」
「私、毎日、毎日、ずう〜と、自分を見てるんだって。神様を見てなくて、1日中、自分を見てる
だから、喜びも、平安もないんだって。落ち込むばかりなんだって。」

「だから、教会へ来て、神様を見上げた途端、元気になる!」「そうなんですねえ。」


“しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。

  主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります”
Uコリント3:16



別の姉妹が言いました
「私もそうなんです、すごくわかります。結局、自分を、ずう〜っと見てるんだなあって。」

「サタンも働いて、神様を見させないで、常に自分や問題、環境を見させようとするもんね。」

「いつもサタンに負けて、乗ってるんですよねえ。でも、自分では、自分を見るのが嫌で、自己憐憫が嫌で、そうしたくないと思ってるんですよ。」

「でも、意志は、神様もサタンも触れられないから、自分の心の一番底では、サタンを選んでいる いつも自分を、問題を、見る方を選んでいる。
肉は、きっと、そっちの方が楽なのよね。 神様を選ぼうとすると、戦いが生じて、サタンと戦わないといけないから。」

「あ、そうだ。そうです。心の底では、肉を選んでます。
サタンと戦いたくないんですね。しんどいから。嫌なんですよね。
サタンと戦うことを放棄して、逃げてる。」

「弱いんだけど、心の奥底では、その弱い方を、自分が選んでいる。自分の責任よね。」


そんな時、別の姉妹からの便り。

・・・今日の、メッセージもとても恵まれました。
私達、クリスチャンは、毎日が霊的戦争である。サタンは、私達に常に戦いを挑んでくる。
それは落ち込みであったり、責めであったり、怒りであったり・・私達に、あらゆる罪を犯させようとして来る。

もし、私達が、クリスチャン人生が、心地よいものでなければならないと、思うなら、そこで 成長は止まってしまう。私達は、休むことなく、サタンと戦わねばならない。
・・しかし、私達が、神様に従う時、又、転んで、サタンに負けた時でさえ、神様は私達を諦めることなく、ずっと愛して、試して下さる。

「試される」。神様は、試して下さっている。

続けて、姉妹との会話で、「仕事が今、大変なんです。段々、中堅の部類になって、
リーダーシップをとって、職場の改善や工夫について発案しないといけない。
私には、出来ないことなんです。どうしようかと、重荷で、重荷で、悩んで・・」

じっと、姉妹の顔を見て、聞いていたら、「あ!・・そうか、そうだ!
神様は、私を試しておられるんですよね。試されてるんだ。 愛されてるんですよね。感謝です・・。」
突然、顔が明るくなった。そう、まさしく、今日のメッセージだった!


・ ・・そんな、あれやこれやを、又、別の姉妹に話すと、 「わかります。すご〜くよくわかる。私もそんな時、はっきり心の奥で、サタンを選んでいます。
選んでいる自分がわかる。自己憐憫にいると、楽なんですよ。
人をシャットアウトして、自分はかわいそうと、自分に閉じこもる。嫌なはずなのに、心地いいんですよね。
私、イエス様を知る前、ずう〜っと、そうしてきた。それって、すごく嫌なんですよ。苦しいし、ものすごい自己嫌悪で。でも、楽なんです。」

「奇跡よね。『私を変えて下さい。砕いて下さい。』と、祈れること自体が。
このところが見えなくて、必ず、相手が悪い、環境が悪いとしか見えない。
人を責めて、相手と環境を変えようとする。イエス様を知らないと、一生、それで終わるよね。」


Copyright(C)1996 Taeko Shibayama