「小学3年生の時に、私、登校拒否になったんです。というのは、給食がどうしても食べれなかったんです」
「それで、4年になって、先生が変ったんです。その先生は全然違っていて、
『食べれなければ、無理に食べなくていいよ』と言ったんです。一人の姉妹の話して下さった事が、とても印象的でした。
「多すぎて?」「そう、小さい身体だったんです。量がもう見ただけで、うわっという感じで、
どうしても食べれないんです。
先生の考えと主義があって、どうしても、絶対に食べなければならなくて、苦痛で、苦痛で食べれないと、
職員室へ連れて行かれて、そこで食べさせられる。
それでもだめだと、校長室へ連れて行かれる。
それで、学校へ行けなくなってしまったんです。
母も感謝な事に、無理に行かせずに休ませてくれたんです。」
そしたら、もう、嬉しくて嬉しくて、ものすごく楽になって、それが、そう言われると、食べれたんですよ。
それから、食べれるようになったんです。」
『律法』と『恵み』を思いました。
ところが、聖なる戒めが与えられ、「むさぼってはならない」と来たとたん、罪がむくむくと生き始めます。あらゆる種類の禁ぜられた欲望を刺激し呼び起こします。
罪がわかります。
すると、罪にがんじがらめになります。出来ないからです。
そして、むさぼらずにいようと、決心すると、ますます、むさぼるのです。もっと、もっとむさぼります。
「〜ねばならない、ねばならない」との律法に迫られるが、出来ない。
「愛さねばならない、親切にせねばならない。寛容でなければならない。怒ってはならない」この律法、戒めは、
聖なるものであり、正しく、良いものです。
この戒めがなかったなら、罪はわからなかったのです。平気で何も思わずに生きれるのです。
『律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。』ローマ7:7
『律法が、「むさぼってはならない。」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。』7:8
むさぼっていても(=あれこれと悪い欲望をいだくこと)、むさぼりが罪だと知らないので、
罪のとがめを感じずに平気で生きれたのです。罪の意識も罪責感もなかったのです。
『しかし、罪はこの戒めによって機会を捕え、
私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです』7:8
正しく良い戒めを知らなかったら、平気で自由奔放に生きていたのです、罪の意識はあるのですが
全然活動していない状態だったのです。この良い戒めを知ると、私は出来ない、出来ないと悩み、
ますます悩み、深みに落ち込んで行きます。
『それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。』7:10
戒め事体は、素晴らしいものです。(例えば「愛しなさい」)。
すべての人を愛せたら、喜びと平安の素晴らしい日々、生き生きと満ち足りた人生が送れるはずです。
『なぜなら、律法(「愛しなさい」)を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。
律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです』ローマ3:20
一生懸命、<自分が><自分の力で>(愛しなさい)を行なおうとすると、出来ないので、
どんどん、どんどん罪の意識は深まるばかりで、私はだめだ、私はだめだ。
『それは、戒めによって機会を捕えた罪が、私を欺き、戒めによって私を殺したからです。』7:11
『律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです』7:12
『では、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。絶対にそんなことはありません。
それはむしろ罪なのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされ』7:13
戒め自体は良いものであり、素晴らしいものですが、私はその戒めに従うことができないのです。
実行する力がないのです。
『罪』の極度の悪意と罪深さがはっきりと現われるためです。
私には出来ない、どんなに頑張っても出来ない、ということを教えたいのです。
でも、戒め自体は素晴らしくても、私には出来ないのです。素晴らしい人生に導くはずの、
この戒めが、かえって私をみじめにし、落ち込ませ、悩ませ、思い煩わせ、暗い人生へと導いてしまいます。
どうして出来ないのだろう、もっと頑張ったら・・、しかし出来ない、ますます出来ない、
どんどん落ち込んで、罪の意識にさいなまれます。
この良いものが、私に致命的悩みを苦しみを、もたらすことになったのでしょうか。
そうではありません。それは『罪』のしわざです。
罪が、この良い戒めを武器として用いて、私のうちに深刻な悩みと苦しみを招いたのです
それは、戒めによって、罪が罪であることを、はっきりと示し、教えられるためです。
ガラテヤ3:19『では、律法、戒めとは、何のためにあるのでしょうか』
『それでは、律法の目的はどこにあったのかと言うと、それは『罪』の罪深さを人間により深く意識させるために、
人間の罪責を人間に明らかにさせ、暴露する目的でつけ加えられたのです。』
『肉によって無力になったため、律法にはできなくなっている事を、神はして下さいました』
いのちの御霊の法則があって、私達に、いのちを与え、罪に勝つ力を与えて下さいます。
頑張れば、頑張るほど、ますます出来なくて、もっと頑張れば、更に出来なくて、
ますます落ち込んで、どんどん落ち込んで、罪の死の法則にはまってゆく。
それが、十字架で死んで、よみがえられた、罪と死に打ち勝たれたイエス様の御霊。聖霊様が内におられるので、
力を抜いて、その聖霊様に自分を任せる。
委ねてしまうと、とても不思議ですが、いのちの御霊の法則が働いて、何の頑張りもなく、
自然に戒めが出来るようになる。内におられるイエス様が生きて下さる。
努力も頑張りもしなかったのに、なんで出来たのだろうという感じで、戒めを行うことができる。
罪を認め、内におられるイエス様に、自分自身を余すところなく明け渡すこと、ここから始まる。
サタンが私達を試みる目的は、
私達に罪を犯させることだけでなく、私達の古い人を動かそうとすることである。
それゆえ、試みがやって来るたびに、私達は自分が動くことを拒絶して、主に向かって
「主よ、これは私の事ではありません。これはあなたの事です。
主よ、私はあなたが私に代って
生きて下さる事を仰ぎ見ます」と言いましょう。
とにかく仰ぎ望むことを学ぶのであって、自分が動いてはならない。
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