わいわい:その2


教会の一人の方が、脳に腫瘍が発見され、手術する事になりました。場所が、場所だけに、死も覚悟したと言います。
その時に、「今まで、元気そのものだったのです。周りで、友達やいろいろな人が、病気になりました。 何か、言葉をかけなくちゃと、思うのですが、何を言っていいかがわからない。
頭で考えて、言うのですが、その言葉が浮いてるのが、わかるんですよね。
ところが、この病気になって、人にかける言葉がある、何を言えばいいかがわかる。心の底から湧いてくる言葉があるんです。
感謝です。神様が少しは人間として、成長させて下さっているんですね。」と、目に涙が浮かんでいました。

‘神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。
こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰め によって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。
それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。’Uコリント1:4、5


アメリカにいる、一人の姉妹。

聖歌隊に入った。メゾソプラノの割り当てだった。ソプラノを希望すると、リーダーーは、0Kしてくれ、一人づつ、場所をずれるように 指示した。
彼女の横の女性が、少し何か言いたそうだった。が、そのまま、クリスマスに向けて、大曲の練習が始まった。
その隣の女性と、全く会話が無かった。無視されているように感じた。自分が日本人だからか、初対面が苦手なのかも 知れない、歌の特別に素晴らしい人だから、嫌だったかも知れない、などと考えた。

しかし、その人は彼女をおいて、その向こうの人と、よく喋っていた。気の大変強い彼女は、むっとなり、 嫌みの一つも言おうかと思った。

しかし、聖霊様が、自我を示された。自我の強い、自分を砕いて下さいと、いつも祈っていた。
神様に従いたいと祈っていると、口から自然に言葉が出てきた。

「私が入ったばかりに、一つ譲ってもらって、ごめんなさい。 あなたが、歌が素晴らしいから、私はあなたの横で、あなたのリードで歌えるから、本当に助かっている。感謝している。」と。
すると、相手は、一瞬、恥じ入るような、悪かったというような顔をした。そして、「いいのよ、気にしないで。大丈夫よ。」と 言った。

それ以後、とても和やかな、いい関係で、練習できるようになった。神様の祝福を感じた。
自分を捨てて、意志を神様に向けて、従って行く時、神様が、みこころを成し遂げて下さることを教えられた。


ある人に、大きな試練が起きた。
別の人はそれを聞いたが、少しも同情が湧いてこない、自分の心の内を感じた
その人に対する愛も感じなかった。好きでもなかった。 そんな自分の真の姿を神様の前に認めた。
自分の内には、何も無いけれど、神様の前に祈ろうと、決心した。

礼拝の招きの御座に出て、神様の御前に、ひざまずいて、祈った。ありのままの自分を、正直に申し上げた。
自分には、愛が無いこと、同情心もないこと、でも、その人のために、祈ろうと決してして、御前に出ていること。

あれや、これや、正直に、神様に話していると、もし、自分がその人の身になったらとの、思いに圧倒された。
どんなに恐れ、どんなに不安で、どんな気持ちだろうかと。
そう思った時、涙が溢れてきて、助けてあげて下さい、 解決してあげて下さいと、心の底からの叫びが、祈りとなって湧き上がった。

人間の内には愛は無い。無くて当然。それを正直に認める時、神様が愛を与えて下さる。 正直に、自分の姿を認め、祈りのために、自らを献げた時神様は用いて下さった 愛を与え、祈りを与えて下さった。

その後すぐに、その人の試練は、見事に解決した。彼女の祈りが、きかれたと信じている。


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