愛のある家庭


小さな子供が、家の鍵で遊んでいました。

母親は、家事をしつつ、気になっていました。チラチラと見ては、 「大切だから、無くさないでね」「ハーイ!」と元気な返事が返ってきました。しばらくして、子供は、外へ遊びに出ました。

日も暮れ始め、当たりも薄暗くなった頃、子供は戻りました。
そして、ションボリと、申し訳なさそうに、告げました。・・鍵を無くした・・

その時、その母親は、子供をしっかりと抱きしめ、子供と共に、神様に祈りました。
「神様、鍵を無くしたことを感謝します。見つけ出させて下さい。」 そして、「お母さんが、捜して来る。」と、家を出ました。

30分ほど、必死に、懸命に捜しました。が、ありません。もう真っ暗です。子供も心配で、一旦、家に戻りました。
そして、再び、子供と共に「神様。鍵を捜しましたが、ありませんでした。でも、感謝します。」と、祈りました。
すると、そこに父親が帰宅。事情を聞いて、「よし、お父さんが捜しに行こう」と、真っ暗な中を、捜しに出ました。

5分後、戻りました。「あった!!」と、父親が微笑みながら、鍵をしっかり握って。
子供が、「わあ〜!!」と歓声を上げました。満面に笑みを浮かべ、 「すごい!神様、すごい!すごい!」と、手をたたき、大喜びで、家の中を走り回りました。
家族で、神様に感謝しました。

ある婦人。運転中に、後ろの子供に気がとられた、一瞬の出来事でした。

ドカン!と、前のトラックに車が激突。見るも無残に車は大破。 幸いに、誰にも、けががありませんでした。夫の大切な、大切な車。
彼女は申し訳なさでいっぱいで、職場に電話しました。心配した夫は、昼休みに、ちょっと帰宅しました。
愛車の見る影もなき無残な姿を、目の前にした夫は、妻と一緒に祈りました。
「神様、感謝します。すべての事を益として下さるので、この出来事を感謝します。」

愛は、どこから来るのでしょうか。・・『愛は神から出ているのです。』
神は愛です。神のおられるところは、愛が満ちています。
ところが、心にある、『自我』『自己中心』が頭を出し、邪魔をして、人を愛せないのです。

問題は、私の、あなたの心の中にある、『自我』です。 夫を、子供を愛そうとする時、すぐに、この『自我』に、ぶち当たります。
自分の思いを遂げようとし、自分の思い通りにならなければ、怒り、又、心を屈折させる。誰も理解してくれない、 自分はかわいそうと、自己憐憫に陥る。又、周囲を責める。
結局、自分、自分、・・問題、悩みを、突き詰めると、この『自己中心』なのです。

ここに、問題の解決があります。

イエス・キリストは、あなたを愛しておられます。あなたのその、自我、自己中心の『罪』を引き受けて、 身代りに十字架上で命を捨てられました。あなたを救うためです。

自分の罪をどこまでも、認めたくないので、自分を正当化し、相手を責める、私達です。
一つの罪も無いキリストが、黙って、私やあなたの罪を背負い、罪人のかかる十字架について死なれた・・ここに、本当の愛があるのです。

一度限りの人生、あなたも、神様を知り、この「愛」に生きられませんか。