[日々思うこと・感じることバックナンバー]

つらつら思うこと・感じる事・・by TAEKO
96/12/10
聖書の学び会で。一人の婦人。
「夫婦大喧嘩したんですよ。主人が、自分の新しい物を買いたいが、場所が 無いから、私の物を捨てろ、と言った。 私は、その時、神様が全く無くて、カーッと頭にきて、 ガーッと、ものすごく勢いで、怒り、文句を言いあげた。もう、大喧嘩。
もう、神様がどこかに、吹っ飛んでしまっていて。私は出かける予定があって、その喧嘩の途中で、時間切れで、出かけた。
時間をおくと、頭が冷えてきて、ああ・・しまったあ! やってしまった。失敗したあ!
いつも教えてもらっている、自分に死ぬ事じゃなくて、自我を選び、自己主張を遂げてしまった、と気づいた。
現に、その時だって、私の用での外出なのに、子供は、主人が見ていてくれるわけで、ああ、主人に悪かったなあと。
神様、ごめんなさい。私の「物」なんかより、夫の「気持ち」、「夫」の方が大切だった・・。 主人に、謝ろうと思い、自分のはどこかへやって、主人のを置かせてあげよう、と思ったんです。 すると、ものすごく不思議だったのですが、心が嬉しーくなって、喜びが心に来たんです。
本当にいつも学んでいる通りで、自我を主張する時、周囲に害毒をまき散らして行くが、自分に死ぬ方を 選ぶ時、聖霊様の喜びが満ちるんだなあと、感謝でした。」


「そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(聖書)
本当の「自由」は、喜びは、自己主張をし、周囲を蹴散らして、わがままを通して行くことではなく イエス様が死なれた十字架で、自分も共に死んだから、自我に死ぬところにあるんですよね。
ある本に、離婚しようとやって来た夫婦に、牧師が、「さあ、今から愛を学び始めなさい」と導いたとありましが、 「愛」って、学ぶものなんですよね。
だって、人間の内には、愛は無いし、この世界にも無いし、そのような愛を、知らない。
学んで行くんですね。神様の一方的な愛、自分を捨てた犠牲的な愛、与えるだけの愛、報いを求めない愛、そんな神様の愛 を、自分を捨てながら、日々学んで行くんですよね。一日、一日、神様が教えて、学ばせて下さるって、嬉しい!