「親の勝手じゃあー」


教会の中には、色々な世代がおられて、母親である婦人達も、子供の立場である、ジュニアや青年達もいる。 子供の側からも、いろんな事を話してくれる。

「お母さんは、教会にいる時は、ものすごく優しいんだけど、家に帰ると恐いんよねー。すぐ、怒るんよねー。」 「そう、そう、恐いよねー。」うわあー、シビアだ。

最近、巷で、よく話題になっている。厳し過ぎる親、親の価値観を押し付け、親の権威をもって一方的に 抑えつけ、親が子供の人生のレールを敷き、親の力で強制する。
そうやって、育てられた子供が、心に歪みが生じ、登校拒否、家庭内暴力、閉じこもり、非行に走る。

ある婦人、「わからないんですよねえ。わからないから、初めての子はどうしても、神経質に育ててしまう。 過剰期待に、過保護、同時に、非常に厳しく育てて、損なってしまうんですよねえ。
二番目からは、わかる から、余裕もって育てられる。又、大切な育児期間って、親自身が若くて何もわかっていないですよねえ。
”育児お試し期間”でもあったら、いいんですがねえ、つくづく反省します。」

「うちの家では、父と母がいつも喧嘩をしていた。いつもお酒を飲んでた父は、母に暴力を振るい、母は父を 嫌い、父も母を嫌っていた。
両親が、一緒にいる事が嬉しいとか、喜びだとか、子供心に一度も感じた事が 無かった。一度もだよ。家族は冷ややかで、バラバラだった。

私はいつも比較の中で、育てられ、劣等感のかたまりだった。 結婚して、いざ自分が家庭を築こうとした時、家庭を築けないことに愕然とした。
愛するって、何かが、 どういう事かが、まるでわからない。夫を尊敬するって、全然わからなかった。 家庭を大切にするって、わからない。本当に、わからないんだよ。

幸い、私は、イエス様に出会えて、神様の愛を知って、自我の強い、頑なな心が砕かれて、少しづつ、少しづつ、癒されながら、 変えられている。
そして、神様は、こんな私に、無条件の愛で、愛してくれる夫を与えて下さった。
もし、神様に出会っていなかったら、どうなっていたかと思う。」

あるヤング、「”育児お試しセール”なんてないんよ。わしも、厳しく、厳しく、殴られて育てられて恐くて、親の前で、 ものもよう言わん。
言いたい事も、何も言えんで育った。要求が高くて、幾ら頑張っても認めてもらえなかった。
親を喜ばせたいから、勉強も頑張った。でも、良い成績を取っても、ほめるどころか、次の段階を要求された。
成績が悪いと叱られ、その鬱積したストレスを学校で発散した。悪い事をして、暴力を振るい、皆に嫌われた。
わしには、教会があったから、いつも受け入れてもらえたから、非行に走らずに済んだ。 もし、教会が無かったら、どうなっていたかわからない。

沢山の子が、非行に走ってる、気持ちがものすごくわかる。親に受け入れてもらえない。こうでないといけないという 基準を親が絶えず持っていて、それには適わないから、いつも親に拒否されている。
自分はいつもだめだ、と 劣等感にさいなまれ、自分も受け入れられなくなる。ものすごく心が屈折し、敵対心で防御する。
素直に自分の気持ちを言えなくて、突っ張った反対の事ばかり言う。好きなのに、嫌いと言い、誉めたいのに、 けなしてしまう。すると、人は嫌な思いになるから、ますます嫌われる。
自分は、神様を知って、一つ一つ神様が気づかせて下さって、神様が矯正し、軌道修正をして下さったから、今こうやって、 立って行ける。

どの親も、育て方がわからんかったと言う。育て方を間違えたという。そんなもん、知らんかったで、済まん わいねえ!!
いい加減にしてくれ。親は知らんかったで、いいけど、子供はどうなるんねえ!!
そんなもん、ちゃんとした親に育てられてたらよ、人生、全然違ってたわけじゃないねえ。」


それがねえ、親もそのように育てられてるから、同じことを子供にしてしまうのよねえ。
でも、例外は別として、普通の親なら、絶対に子供を愛しているよ。絶対に愛している。

子供に、良かれと思ってしているんだよ。でも、結果的に間違っていた。 親もわからないんだよ本当の愛ってわからないし、自ら体験した事すら無いかも知れない。
それを子供に与える事は出来ない。何のために生きるかが、親も、わからない。

離婚を決意した夫婦が、ある牧師のもとへ来た。「私達はもう終わりました。これ以上やって行く事は出来ません」
その牧師は、答えた。「さあ、今から愛することを学び始めなさい。」

愛って、日常生活の中から、学んで、学んで、身につけて行くもの、学ぶものなのですね。
神様の愛、それは犠牲の愛、一方的な愛、自分を捨てる愛、身代わりの愛、命を捨てる愛、そのようなもの を、日々の生活から、自我に死にながら、一生をかけて学んで行くのですね。

若い無知な時に、子供を育てさせられるのは、きっと神様に、頼って、頼って、拠りすがって、育てるためなのでしょうね。
絶対に、自分では育てられない。日々に溢れ流れ来る、神様の愛とあわれみと、赦しの中で、自分自身がまず赦されて、 愛されて、満たされるところからしか、出来ない。

「しかし、成長させたのは神です。」Tコリント3:6
子供を成長させられるのは、人間ではなく、神様ご自身。

親は失敗だらけで、足らなくとも、神様に拠り頼むなら、神様が成長させて下さると、信じて歩める、 この素晴らしい平安。
神様と共に、祈りつつ、御言葉から、はっきりと指針を示されながら、子供を育てること が許されている・・この大きな恵みとあわれみに、畏れを覚えるばかりです。