俳句講座、その後

  

 

1 はじめに
2 選句、句の良し悪し
3 推敲、何を求めるか
4 鑑賞、イメージの広がり
5 類句類想
6 独り善がり
7 即物具象


 

bP

はじめに

 俳句の入門講座を受講し、その縁で初めて句会に参加することになった。途中、ウイークディの午後である句会に出席出来なくなり、僅か半年ほどで退会せざるを得なくなったが、その間の事などをまとめてみたい。

 最初の日、着座するにあたり今回の新入会員4名はベテランの方達の間に挟まるように夫々席を決めてもらい、左右の方の手助けを得て句会の進行を知る上で大いに助けになった。

 ここの句会は月二回。有季定型による当季雑詠2句、兼題1句持ちより。互選及び各自の講評である。
句会の最後に持回りで次回の課題を発表して次回の句会のときに出句。幹事が持帰りその次の句会で清記を配布し、又次の句会で選句と、出句・選句に夫々二週間の間の運びである。
我々新入会員の句が俎上にのぼるのはようよう雰囲気に馴染んできた頃だった。

 互選は四句、これは当季雑詠と題詠を区別しない。先生も会員と同様に選を行い、それとは別に天・地・人・秀逸の選をして会を締めくくる。この間、講評や質疑があって人の考えに触れる良い機会になった。
また、吟行に参加したり、公民館祭りに短冊を出品したりは独りでは出来ない思い出深い体験だった。(H14.2.12)

 

bQ

選句、句の良し悪し

 私は当初より俳句に絵手紙の絵のイメージを持っていた。そんな絵を俳句で描いてみたいと思っていた。これが私の俳句の原点である。
最初の選句では直感的に「これ、良いな」と感じた句を選んだ。そうする事に何の躊躇もなかった、否それ以外に方法が無かったのである。

 清記の中にそうした一句乃至二句を見出すのはたやすい。四句選の残りは考えることになる。が、この作業の面倒なこと。
一つは景は解るがどうもしっくりとこない。一つは当り前すぎて詰まらない。一つは何の事なのか句意をさっぱり理解できない。何度いっそ自分の句を選べたらと思ったことか、当然の事ながら作者が一番の理解者なのだから。

 直感的にこれと選ぶ句は、総じて平明な表現で句意が明確であったし、その内容も容易に実感できるものであった。即ち共感し得る景であった。それに、句に勢いが感じられた。勢いは即ち動きである。
この辺は絵や写真と同じだなと思う。動きのない絵や写真には視線が引きつけられない。

 他の人の選も大いに気になるところである。自分の選に点が入ると正直ホッとする。しかし、一句に集中することは少ない。それだけ受取り方は各様だということだろう。
共感の要素には、内容と表現の問題がある。その人なりの好き嫌いや方向性も見逃しにはならない。感性という捕らえ所のないものの世界であると痛感する。(H14.2.13)

bR

推敲、何を求めるか

 初学者は作ろうとして俳句はできない。何かの弾みでひょいとできてしまう。しかし、そのままでは如何にも通り一片の俳句で自分でも不完全だと思う。当然手を加えることになるのだが、結局は最初の句が一番良かったとは句会でもよく聞く話である。

 この推敲ではともすると字句の修正に偏りがちで、その時はそれなりに満足もするのだが日を置いて読み返すとどこか違い、詰まらぬものに思えてくる。
あの時何を見、何を感じて一句になったのか。それを確と把握しているわけではない、いやその感興の自覚がないからこそ遊離した言葉を安易に据えてしまい、それに気付かずにいるのではないかと思う。

 俳句にそれしかない適切な一語を選ぶのは句の究極であり、表現力はもとより重要ではあるが、俳句に詠いあげる対象のどこをどの角度からどういう切口で捉えるか。言葉を選ぶ以前に、対象を見極め自分の足腰をしっかりと固定しなくてはならないのではないかと思い始めている。

 自分に俳句を作らせるもの、その正体を見極めることは絶望的に難しい。
夕焼けに、あるいは雪原に突如開いた青空に、思わず見惚れることはある。確かに理屈でなく美しい。しかし思わず「ほうー」と感嘆したそのままの「ほうー」では俳句にならない。ここから踏み込み、「ほうー」の実感を自分なりに掴んでからでないと折角の推敲も空回りをするのではないか。(H14.2.14)

bS

鑑賞、イメージの広がり

  蛸壺やはかなき夢を夏の月    芭蕉

 「蛸壺に」だと蛸壺に入り込んだ蛸だけしか見えない。「蛸壺や」にして海底に沈んだ蛸壺とその海底の景色もひろがり、それを想像している作者像も浮かぶ。そして蛸もはかない夢を結んでいるかもしれないが、人間である作者も、さらには、我々もまた実はこの世にはかない夢を結んでいるのかも知れないという広がりをもってくる。また、季語「夏の月」は作者を照らし、海上を照らし海底の蛸壺にまで及んでいる。「や」で一句が切断されたことによって、大きな余韻が生まれているのである。

 これはある入門書の切字の解説の一節である。と同時に鑑賞の仕方をよく示している。初学者にとって俳句鑑賞の難解な点は、この省略にある。
省略されている部分の情景を想像し連想し解釈しなければならない。読者がイメージを広げてゆくことを求められているのである。読者が能動的に働きかけ、また作者はそれを拒まない。これが五・七・五という最も短い形式をもつ俳句の大きな特徴であろう。

 句会で思いもかけない発展した講評を得て赤面することがある。永年俳句に親しんだ人とでは、句の解釈・鑑賞で如何ともし難い違いを見せ付けられる。
初学者はこの想像・連想し解釈することに慣れていない。俳句に示された僅かばかりの言葉と季語や間合いをもとに、己の感性を自由に存分に飛翔させるのが俳句の楽しみ方なのかと思う。

 これはまた、俳句の実作についてもいえる。
芭蕉の「謂ひおほせて何かある」はこのことを言うものであろう。実作に当っては如何にこのふくよかな間を作り出すか、不要な言葉を如何に切って、削るか。それが俳句の形であり、精神だという。改めて、鑑賞と実作は表裏一体であると思う。(H14.2.15)

bT

類句類想

 句会で直接指摘されたことはないが、小声で類句だと話しているのは幾度か耳に入った。それが俳句に相応しいのかどうかも分からぬままに無理やり句作りをしているので、類句だと言われるのは句材句想が的外れでなかったように思え、むしろ喜ばしいことと受止めている。

 類句は採らないとする選者は多い。勉強会で厳密に類句を排したなら初学者は俳句が出来なくなるに違いない。その様なことは一切気にせず句を作り、もし類句があったらそれと較べて上達の糧にしたら良かろうと思っている。
元の句が余程有名な俳句ならいざ知らず既に誰かが作ったという程度のも言うのならなら、これからの初学者の作はその殆どが類句類想の範疇だろう。

 因みに、類句とは一応記憶する句に類した句をいい、類想とは誰でも思いつくような句をいう。とあった。それを職業としない人達が一般に記憶する又は記憶し得る俳句とはどのようなものであろうか。
絵の勉強法に模写があるが、俳句では意識して先人の句の言葉を入替えてみても勉強にはなるまい、それは止めたが良さそうだ。

 類想は少しばかり厄介だ。初学者が想を得るのは、この誰でもが思いつくようなことばかりなのだから。それはそれで当然の事と思っている。ここは、何時の日か一味違う言葉を得るように工夫を重ねるのみであろう。お手柄とか発見と言われる一語が即ち俳句なのだろうと思う。(H14.2.19)

bU

独り善がり

 句会では往々にして独り善がりとの評を受ける。
当り前の事を当り前に言ったのでは俳句にはならぬだろう。流石の素人でもそう思う。そこで表現をあれこれと思い巡らすのだがこれがいけないらしい。得てして本人だけが悦に入っていることになる。読者も共感できる、という事を忘れてしまっているのだ。

 ただ、この共感というものも曲者ではある。芭蕉以前の頃の俳句は可笑しさ・面白さが主であったらしい。和歌の優美・雅に対し俳句は俗であり、俳諧と称して一線を画した(俳諧の心を私はまだ知らない)。可笑しさと言ってもそれは和歌や芝居、故事などの知識を下敷きにし、その座での知的レベルは求められていたであろう。芭蕉はこれに文芸としてのレベルを追求した。

 近年になって俳句と呼ばれるようになって、その形も有季定型、無季定型、自由律などと多様化し、有季定型でもまた方向性は多様である。
俳句に詠い込めるものも詩情であり、人生観であり、社会性であったりする。夫々の方法で質的な高みを求めているには違いないのだが、自分とは異なるスタイルの俳句表現には違和感を覚え、それも独り善がりと感じるのではないか。

 我々初学者のはそれと次元の違う独り善がりであることは承知している。
句材が独自の思い込みであり、表現が独断であり、質的に俳句のレベルに届かず、共感はおろか読者の理解を得られないということだろう。即ち独り善がりとは稚拙である、という事だと思っている。とは言え勉強会でのこの評はいささか抽象的過ぎるのではないか。(H14.2.22)

bV

即物具象

 慣れぬうちはなかなか俳句が出来ぬままに次の句会が迫ってくる。
感動した事を俳句に、と言われるが歳をとるにつれ日頃の生活で感動するという意識に乏しくなる。感動などと殊更には思わず、ふと目に付いた或いは気付いたこと位に考えると良さそうだ。

 それに下手に考えず、目に付いたその物に集中しその印象を鮮明にすることだけを心掛けると案外俳句になるものらしい。それも断片的で良い。足りない所は読む人に任せてしまう。それが俳句の表現方法なのだ。その位に割切ってしまうことが必要かと思う。そして気を楽にすれば割と出来そうな感じがしてくる。

 その人なりの形が出来てくるとしめたものだろうが、兎角対象を手当たり次第に求めがちだ。
自分の場合、先ずは絵手紙のような俳句と決めているので風景とか静物に絞られる。そこで、その風景なり静物なりの第一印象を如何に鮮明に言い表すか、その一語を探し出すことが俳句作りの基本なのかと思う。

 それと初学者が苦労して作った俳句に対して説明だ、報告だとの評が多いのもやはりこの辺に原因がありそうだ。
見た物にこだわり、こだわって断定する。その呼吸を学ばないと説明や報告から抜けきれない恐れがある。尤もこの断定も誤ると独り善がりと言われる。先ずは恐れずに作ってみることだろうか。(H14.3.3)