暗黙情事(抜粋)


滝の流れ落ちる崖の高さは七〜八メートル程。
滝壺まで差ほど落差はない。
捲簾は崖の岩肌に手を掛けると器用に掴まり、軍服を翻して身軽に降りていった。
下まで到達すると滝壺を覗き込む。
滝の落差の割には結構水深があった。
これなら仮に上から落ちたとしても死ぬことは無いだろう。
ましてや前戦で先陣切って駆け回る、剛胆な軍人なら打ち所が悪かったなんてヘマをすることもないはず。
「なーんだ。こんだけ深いなら飛び込んでも良かったなぁ」
高い場所は少し…いやかなり苦手だが、降りる場所が見える分には問題ない。
わざわざ崖を伝い降りるより簡単だ。

「さ〜てと…本題に入りますか」

捲簾は後ろを振り返って、漸く探し当てた意中のヒトへ視線を落とした。
上半身が水から這い上がった状態でグッタリと昏倒している。
軽快に大股で近寄ると、捲簾は俯せに倒れている男の前でストンとしゃがみ込んだ。
手を伸ばして、血の気の薄い冷えた首筋へ触れてみる。
掌に規則正しい命の鼓動が伝わってきた。
命に別状が無いのを確認してから、ざっとずぶ濡れの全身を眺める。
「ちっと出血してんな…何処だ?」
水で僅かに薄まった鮮血が筋を作って地面を流れていた。
身体に裂傷は無い。
捲簾はしゃがんだままジリジリと突っ伏している頭の方まで移動した。
「どれ?額は…擦り傷程度か。んじゃ頭?」
僅かに眉を顰めた捲簾が、そっと濡れた頭に触れてから掌を返す。

赤くは…染まらなかった。

指先で髪を梳いてみれば、地肌が腫れて血が滲んでいるが裂けてはいない。
打撲、といったところか。
妖獣との戦いで落ちたか飛び降りたかした時にバランスを崩して打ったのだろう。
どうやら脳震盪を起こしているらしい。
「大丈夫そーだな。そんじゃ〜心配してるだろうから本隊に連絡取っか」
捲簾は勢いよく立ち上がって、ベルトに付けていた小型無線機を手に取った。

その時。

「おわっ!」
思いっきり足下がグラつき、バランスを崩す。
いきなり強い力で右足が引っ張られたからだ。
驚いて足下を見下ろすと、軍靴を白い手が掴んでいる。
「漸くお目覚めですか、元帥閣下?」
「っ…あっ?」
飄々とした口調で呼ばれた男は、頭を抱えて唸った。

ゆっくりと、その面を上げる。

「散々四方苦労して探しましたぞ、天蓬元帥。部下達が皆元帥の御身を案じておりま…す?」
殊更慇懃な物言いで苦笑を浮かべた捲簾の口元が強張った。

何だか様子がおかしい。

覇気のない双眸を捲簾へ向けながら、天蓬元帥と呼ばれた男は何かを逡巡して戸惑っていた。
「元帥?いかがされましたか?」
「貴方…は…誰…ですか?」
か細い声音で訊ねられた捲簾は、恭しく膝を着いて頭を垂れる。
「これは大変失礼いたしました。お目にかかれて光栄に存じます、元帥閣下。私は東方青竜王幕下にて大将を務めております捲簾と申す者。以後お見知りおきを…ってな感じで」
「けん…れん?」
「そうですよー?東方軍の自称暴れん坊将軍でーっす…元帥?」
不安げに歪む表情に、捲簾が目を見開いた。

自分が知っている『彼のヒト』とあまりにも違いすぎる。

「元帥?どうかしたんっすか?あ、やっぱ頭痛ぇとか?」
「捲簾…貴方は…知っているんですよね?」
「天蓬…元帥?」
「僕は…此処で一体何をしていたん…ですか?」
「ちょっ…元帥?どーしちゃったの?」

様子のおかしい天蓬の前にしゃがみこむと、震える指が躊躇いながら縋り付く。
捲簾の肩へ震える指が食い込んだ。
必死に離すまいと、懸命に。

「僕は…僕は一体誰、なんですか?」
「え………」

天蓬から吐き出された予想外の言葉に、捲簾は驚愕で瞠目した。