堕天(抜粋)


天蓬が薬箱片手に捲簾の部屋を訪れた。
無造作に扉をノックしたが、返事は帰ってこない。
小さく溜息を吐いて、天蓬は扉を遠慮がちに開けた。
「捲簾…居るんでしょう?」
室内を見回すと、部屋の主は何処にも見当たらない。
天蓬の雑然とした部屋とは違う、物も少ないきちんと整理整頓された部屋。
シンプルな革張りソファの背には、無造作に軍服が放り投げられていた。
近寄って前に置かれたテーブルに薬箱を置くと、天蓬は軍服を手に取る。
ずっしりと掌に重い布地の感触。
身に纏っていた者の汗と血を、吸った。
両手で広げると、肩口から背中にかけて無惨に切り裂かれている。
その回りに飛び散る赤黒い染みが、軍服の広範囲に広がっていた。
天蓬は不快そうに眉を顰める。
「あの人は…また僕の指示を無視して勝手に動いたんですねぇ」
捲簾の武人としての実力は充分すぎる程よく分かっていた。
『闘神に匹敵する程の力』と賛辞だか揶揄だか分からないような風評も、決して間違いではない。
だが、それだけに捲簾の扱いは厄介だった。
作戦を立てる際には戦地の情報、妖獣の生態、自軍の実力などあらゆる情報を駆使する。
しかし、捲簾の動きは天蓬の予想を遙かに凌駕してくる。
彼には戦略の定石など全く通用しないのだ。
今まではそれでも大敗こそ無いが、この先もそうだとは限らない。
自分が一緒に戦地へ降り立っていた時は、ある程度抑制することも出来た。
分かっていながら、あえて捲簾の副官に退いたのは自分だけれども。
「こんな派手に負傷されたら、僕の戦略にケチがつくじゃないですか…」
天蓬は一人言ちると、手に取っていた軍服をソファへ投げ落とした。
その横に腰を下ろして、煙草を銜える。
すぐ側に置かれていたゴミ箱には、赤黒く血塗れた包帯が無造作に捨ててあった。
溜息を零しつつ頭を掻いていると、別の部屋から水音が聞こえてくる。
「全く…傷口も塞がっていないと言うのに」
吸いかけの煙草を灰皿へ捻じ込むと、ソファから立ち上がって寝室のドアへと手を掛けた。
寝室に備えられたバスルームからは、勢いよくシャワーの降り注ぐ音が漏れている。
腕を組んで壁に凭れていると、ふいに水音が止んだ。
天蓬は身体を起こすと、無遠慮にバスルームへ入る。
声も掛けずに扉を開け、捲簾の姿態を目にした途端、身体中の熱が一気に跳ね上がった。
シャワーを止めたままの体勢で、捲簾は背中を無防備に晒している。
均整が取れ無駄な肉のない、鍛え上げられたしなやかな身体。
全身躍動感に溢れ、野生の猛獣のような美しさがある。
その右肩口から肩胛骨辺りまで、大きく裂かれた傷跡が一筋走っていた。
水滴が褐色の肌を弾いて、身体を滑り落ちていく。
天蓬は息を殺して、食い入るようにその背中を見つめていた。
鼓動が激しく、耳鳴りが煩わしい。
無意識にゴクリと息を飲んだ。
引き寄せたい衝動に駆られて、指先が勝手に動く。
「…丸腰のところを襲撃するなんて、随分と無粋だな天蓬」
振り向きもせずにいきなり名を呼ばれ、天蓬の身体が強張った。
口端に笑みを浮かべながら、捲簾がゆっくりと振り向く。
「そ〜んなに我慢できない程、俺に会いたかったの?」
「…バカじゃないですか、貴方」
「ひっどぉ〜い!折角一生懸命お仕事して帰ってきたのに、労いの言葉も無い訳〜?」
わざとらしく泣き真似をする捲簾に、天蓬は冷たい視線を投げた。
「ふざけてないで、さっさと身体拭いて着替えなさい。そんなに裸体晒して楽しいんですか」
呆れながらバスタオルを放り投げ、捲簾の頭に被せる。
タオルで口元を拭うと、捲簾は可笑しそうに双眸を眇めた。
「別に晒して恥ずかしい身体してねーし?」
「はいはい、貴方が自分フェチのナルシストだって良く分かりました」
胡乱な表情で天蓬は溜息を零す。
「自分の身体眺めたって楽しくねーよ。まぁ…誰かが俺の身体見て、息を飲む程欲情させるってのは楽しいけど?」
捲簾が意味深に唇を綻ばせた。
途端に天蓬の表情が無くなる。
無言のまま捲簾を一瞥すると、踵を返して扉を叩きつけた。
「くっ…くくく…っ」
捲簾は心底可笑しそうに腹を抱え、喉で笑いを噛み殺す。
「図星突かれて顔色変えるようじゃ、まだまだだなぁ…上層部のジジィは騙せても、俺をたぶらかすぐらいの器量がねぇと」
ま、そこは経験値の差だから仕方ないか。
年の割に策略家で擦れているクセに、妙なところで純粋なのが面白い。
とことん汚して墜としたくなる。
「あ、やっべぇ。興奮して勃っちまった」
捲簾は自嘲すると、右手で熱く脈動する自身を握り締めた。