疑似鼓動(抜粋)


書類を抱えた天蓬がやってきたのは、自分の執務室ではなく捲簾の部屋。
ノブに手を掛けると、ノックもせずに扉を開けた。
物が少なく、生活感のほとんど無い部屋。
必要最低限の必需品しかないそこは無機質な印象だが、それでもあちこちに捲簾の存在が色濃く感じられた。
大きめのソファへ無造作に掛けられたままの軍服の上着。
ローテーブルにはシンプルな陶器製の灰皿と、愛用の銀ジッポーが置かれている。
窓際に配置された執務机は綺麗に整頓され、書きかけの報告書が端へ寄せてあった。
天蓬は机へ近付くと、持っていた書類をその上へ置く。
部屋の主が不在なら、用はそれで終わりのはず。
捲簾ならわざわざ書き置きを残さなくても、書類を見れば用件は分かるだろう。
それでも天蓬は帰ろうともせず、白衣のポケットを探って煙草を取り出すと火を点けた。
旨そうに煙で肺を満たすと、窓の外を眺めながら白煙を吐き出す。
独特の甘い香りが室内を満たし始める頃、銜え煙草のまま部屋を横切り寝室のドアに手を掛けた。
今度は部屋を訪れた時と違って、音を立てないよう静かに扉を開ける。
天蓬は室内を覗き込むと、その頬に柔らかい笑みを浮かべた。

「捲簾…お目覚めですか?」
「………おー」

ベッドの中から億劫そうな低い声が唸る。
もそもそと掛布の中が蠢くと、不機嫌全開の美丈夫が顔を覗かせた。
差し込む光に眉間を寄せると上掛けを押し退け、しなやかな肢体が大きく伸び上がる。
「…今何時だ?」
「まだ昼前ですよ」
「あ、そぉ…くあっ!」
捲簾は寝惚け眼で、ガシガシと寝癖の付いた髪を掻き回した。
気怠げに半身を起こすと、キョロキョロと辺りを見回す。
「はい、コレでしょ?」
天蓬はサイドテーブルの上から煙草を取ると、捲簾へと放り投げた。
「天蓬ぉ〜火ぃ〜」
「はいはい」
煙草を銜えてぼんやりしている口元へ、天蓬はライターを差し出す。
火を点けると大きく煙を吸い込み、凭れたベッドヘッドに頭を乗せて上向いた。
「怠ぃー…お前元気だよな」
感嘆とも嫌味とも付かない言葉を吐いて、捲簾は口端を上げる。
寝付いたのは明け方近く。
裾野がぼんやりと薄明るく光り始めた頃。
捲簾は墜落するように意識を失った。
眠った。のではなく、正しく言葉通り失神したのだ。
出征から帰還したばかりで、疲れていたにも係わらず過度の肉体労働。
所謂セックスを、二人共溺れるように互いの肉体を貪り合った。
出征中の禁欲状態は、身体よりも精神的にクる。
ただでさえ、天蓬とはつい最近情を交わし合ったばかりで。
まぁ、恥ずかしい言葉で言えば『蜜月』を満喫中のところに、無情にも出征命令が下りてしまった。
しかも今回に限って天蓬は下界へ降下せず、天界に残って作戦指令するだけの参加。
突然の通達に訳が分からず、捲簾は眉を顰めて困惑する。
でも改めて考え直せば、そもそも元帥が小隊を率いて直接参戦するのは天界軍でも稀なことだ。
いつまでも実働部隊で動く天蓬に対し、威厳や威光に拘る上層部は渋面を隠そうともしない。
結局はそう言うことなのだろう。
突出した異端者は、平和ボケした天界ではいい顔されない。
まぁ、その最たる存在は捲簾自身だが。
「今回僕は司令室の卓上から動きませんでしたからね。貴方より疲れていないことは確かですよ」
天蓬は灰皿を持って捲簾のベッドへ腰を下ろした。
長くなった灰を見咎め、目の前に灰皿を突き出してくる。
「体力的には、だろ?」
天蓬のストレスは相当限界だったのだろう。
出征から帰還した直後に、捲簾はもの凄い形相をした天蓬に有無を言わさず拉致された。
まともに言葉を交わす間もなく、何故か捲簾の自室へと連れ込まれ、ベッドにそのまま放り投げられてしまう。
帰還して何の労いも無く、いきなりの暴挙に文句を言おうとした、が。

できなかった。

あまりにも憔悴しきった天蓬の表情を、ただ呆然と見つめてしまう。
後はただ済し崩しで、軍服を剥ぎ取られ。
捲簾の存在を確かめるように蠢く掌に。
天蓬の愛撫に飢えていた肌がゾクリと粟立つ。
強請るような掠れた嬌声に、天蓬が双眸を眇めて微笑んだ。
飢えた獣のような瞳に見据えられ、捲簾は激しく欲情してしまう。
自ら進んで身体を開いて天蓬の激情を受け入れると、どうでもよくなった。
互いに望むだけ与えて貪って。
飽くこと無くいつまでも交じり合った。
身体中の気怠さも、気分的に悪くはない。
ぼんやりと煙草を燻らせていると、天蓬が身体を寄せてきた。
「貴方の印が必要な書類、預かってきましたから」
「ん?あぁ…備品の請求だろ?麻酔銃が結構ダメになったからなぁ」
「それと、報告書の方も明日提出で。書記官へ回して下さいね」
「一日あれば充分だろ。これといって特殊な任務じゃなかったしな」
「じゃぁ、明日は待機所で事務処理と…丁度良いですねぇ」
「あ?何がだよ?」
天蓬が意味深に呟いて、口元を上げる。
怪しい雰囲気に、捲簾は天蓬へ胡乱な視線を向けた。

一体、何が丁度良いのか。

捲簾が不審気に睨んでいると、天蓬がそっと顔を近づけてきた。
吐息が触れる程の距離。
捲簾は真っ直ぐに天蓬の瞳を見据える。
その美しい双眸に、天蓬は危うい光を閃かせていた。
「出征前の約束…忘れていませんよね?」
「………約束?」
予想もしなかった天蓬の言葉に、捲簾は暫し考え込んだ。