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日本百名山
昭和39年7月20日 発行(初版)
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深田 久弥
昭和46年3月21日 山梨県の「茅ヶ岳」で、病死((68歳)
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黒部の山賊 伊藤 正一
2013年秋、三俣山荘に伊藤さんがおられました。
女性のバイトさんが「仕事を教えて下さい」と、お願いしていました。
口を効いてもらえるだけでも光栄な、伝説の方です
大正12年(1923年)生まれ
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歳 |
「山野井 泰史」 世界最強クラスのクライマーでした。
2002年、ギャチュン・カン北壁登頂後に雪崩に遭遇。
奇跡の生還をする。
夫婦で失った手足の指は、20本以上に・・・・。
奥様は旧姓「長尾 妙子」で、これまた、日本人屈指の女性クライマー。
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山岳同志会 「小西 政継」の生涯
下町の山岳会 「山岳同志会」を、一流の山岳会に育てあげた「鉄の男」
1996年10月1日、マナスル登頂後に消息不明 (57歳)
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松田 宏也
ミニヤコンカ頂上を目前に、無念の撤退
下山時にパートナーを失いながらも
奇跡の生還を果たす。
足も、手の指も失いました。
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長谷川 恒男
「アルプス三大北壁」冬期単独登頂者
パキスタン、フンザのウルタルU峰で、
1991年10月10日、雪崩により遭難
団塊世代の人間で、43歳でした。
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佐瀬 稔 遺稿集
志なかばで逝った8人の登山家の最期を
綴った 「佐瀬 稔」遺稿集
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北海道山岳連盟隊の遭難記
第一次アタック隊の12名は、登頂を断念後
下山中に8人が滑落、遭難した。
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山田 昇
1985年、8000m峰のハットトリックを
達成しました。
8000m峰 14座を目前に(9座)
1989年2月、マッキンリーから帰らず
39歳でした
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山岳遭難の記録 |
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長野県警 |
岐阜県警 |
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富山県警 山岳警備隊 |
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山岳遭難 |
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篠原 秋彦
へりレスキューの草分け的存在
2002年1月6日、救助作業中にヘリから転落
亡くなられました。
独立したばかりの事でした。
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新田 次郎 |
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新田 次郎 |
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田部井 淳子
ご存知、田部井さんです。
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奥山 章
第2次RCCを創設
1972年7月
ガンを苦に、自宅にてガス自殺
46歳でした
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「単独行」 加藤 文太郎
不世出の単独行者
冬の槍ヶ岳 北鎌尾根で遭難
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山靴の音
若き日に、八ヶ岳で遭難
そして、友と両足の指、全てを失うも
山登りを続けました
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想い出の 谷川岳 |
東京緑山岳会
谷川岳をベースに活躍した、町の山岳会
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安川 茂雄
知っている人は知っている
登山家であり作家でした
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吉尾 弘
2000年(H12年) 3月13日
谷川岳 一の倉沢 滝沢リッジで滑落遭難
私が谷川岳に友と登った、二日後の事でした。
62歳でした
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山と雪の墓標
大量遭難の記録
西穂高の稜線上の落雷事故
(松本深志高校)
正月の薬師岳における道迷い等
(愛知大学)
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この山にねがいをこめて
谷川岳 遭難の記録 (群馬県警)
魔の山「谷川岳」の遭難の記録
昭和39年末で、404名の遭難者
1931年(昭和6年)から統計が開始された
谷川岳遭難事故記録によると、
2005年(平成17年)までに
781名の死者が出ている
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小島 六郎
読売新聞社の記者でした
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本田 勝一
朝日新聞の記者でした
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石井 昭子
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遠藤 由加
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1986年に「K2」で起きた
大量遭難記
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神長 幹雄
「山と渓谷社」編集長を歴任
「山と渓谷」誌に執筆された、遭難に関する
記事をまとめたものです
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小西 浩文
8000m峰 14座の無酸素登頂を
目指していました
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新進クライマー列伝
25人のクライマーが紹介されています
1997年3月 初版
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正月の常念岳で、「のらくろ山岳会」の
3名は、「一の沢」で雪崩に巻き込まれる
遭難、捜索の顛末
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花の百名山 |
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今井 通子
カモシカ同人冬季チョモランマ峰登山隊は
登頂に失敗した
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原 真
医師であり、本も書く
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冬山の参考書 |
佐伯 富男
1957年、第一次南極越冬隊員
芦峅寺のガイド
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霧ヶ峰
「コロボックルヒュッテ」のお話
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甲斐の名山を紹介しています
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文庫本 一覧
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山地図 (50000分の1) |
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