山形県〜秋田県 鳥海山をめぐる町並。

「鳥海山はその秀麗な山容から、「出羽富士」とも「秋田富士」ともよばれる名山で、秋田、山形県境にあり、広い裾野の一部は直接日本海に落ち込んでいる。度重なる噴火による複雑な地形に、湿原や溶岩流、火口湖などがあるスケールの大きな山である。」(日本300名山ガイド/新ハイキング社より抜粋)

山好きの主人がお盆休暇に選んだ鳥海山。日本100名山にも入っていて、登山好きな方にはとても有名な山らしいですが、実の所、私はその名を知らなかったのです。

「今度鳥海山にいこう!」と言われても、「どこそれ?鳥取?」(鳥の漢字で推測する無謀な私)などという的外れた答えしかできなかったのでした。

*この地図は武田尚志さんのHPよりお借りしました。

 

 

今回は私のたっての希望で、3泊同じ宿に宿泊することになりました。だって、いつもばたばたして不満が残るんだもん。

ってことで、旅の日程をきめたはいいものの、いつものように前日まで何も準備せず、前日の夜出発するまぎわになってあわててMTBを車に積み込んだり、山道具を準備したり。おまけに旦那が仕事で1時頃まで帰れないというではありませんか。なんともはや、波瀾の予感のする旅ではあります。

出発はam2:00。環7から鹿浜橋経由で東北道にはいり、一路山形道の月山まで。いやしかし、さすがお盆。道は朝8時、仙台を前にして結構な渋滞なのでした。山形道から国道7号に入り、鳥海ブルーラインを経て、途中竜巻きのために道路が通行止めになるなんていうハプニングにも遭遇しつつ、なんとか宿に到着したのでした。

意味なく途中で立ち寄った月山湖にて。

本日の写真たち

そして。恐れていたことではありましたが。翌日より物凄い大雨。鳥海エリアよりちょっと南に下った月山なら、もしかすると晴れているかも?なんていつものごとくいい加減に予想して、月山方面に進路を定めたのですが。。。結果は大はずれ。鳥海エリアよりひどい大雨&雷でした。

そう。私はイベント時かならず雨をふらせることが出来るという特技を持っていました。超雨女です。たまには晴れもあるんだけどね。。。(泣)

取りあえず、月山にのぼるのは無理なので近くの出羽三山の羽黒山神社にお参りして来ました。ちっとも期待していなかったのですが、ここがとてもすばらしい神社だったのです。神社なのになぜか五重の塔があるあたり「日本」を感じるところですが、それにもまして組木の美しさと素木の素朴さが相まって、この東北の地に長きに渡り風雪に耐えて来た歴史を思うのでした。平将門建立(920年代)といわれ、国宝に指定されています。

2446段の階段をのぼり(相当長いです。近所の中高生の運動部員はきっとこの階段を毎日走っているのだろうと考えると涙がでそうです)、樹齢500年とも言われる杉並み木を通りつつ、山頂の神殿へ向かいます。出羽三山は山岳修験の山として知られていますが、この並木を通るとさもありなん。おそらくこの石段も修験者が一つ一つ据えていったのでしょう。彼等の志と修行の厳しさははかり知れないものがあります。

本日の写真たち2

そして。前線がしっかりと東北地方に停滞しているので、翌日も当然雨。「太平洋側なら晴れてるかも知れないから仙台にでも行く?」などというあまりに不毛な話をしつつ、酒田市内観光に行くことに。そして、私達はとても文化の香りのするまち、酒田を発見するのでした。

 
   

蚶満寺

松尾芭蕉が旅した最北の地と言われる象潟。芭蕉は元禄2年6月18日象潟に到達し、「きさかたの雨や西施かねむの花」など3句を残したそうです。その句碑がたつ蚶満寺は、実は1804年まで海の上に浮かぶ小島に建っていたお寺でした。1804年の象潟地震のために海の部分が陸地になり、いまではまるで田圃の上に小島が浮かぶような風景になっています。元は松島と並び称されるほどの景勝地だったとか。たしかに、とても美しい不思議な風景でありました。中には木登り地蔵や北条時頼公のつつじなど、さまざまな旧跡があります。

   

十六羅漢

国道7号を吹浦あたりでちょっと海側にはいったところにあります。この近辺の奇岩は鳥海山が吹き出した溶岩流が海に洗われてできたものだそうです。この十六羅漢は海禅寺の21代和尚寛海和尚が1864年に発願して刻んだもので、漁師の安全を祈願したもの。この寛海和尚は後年なぜか自分で自分の命をたったと言うことです。衆生を救うという祈念はそこまで彼を苦しめたのでしょうか。

この羅漢をみていると、なんだか彼の苦悶をそのままあらわしているような気がしてなりません。風雪にさらされてすでに形を失いつつある羅漢像です。

   

本間美術館

「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」とわらべ歌に歌われた程の豪商だった本間家。河村瑞軒が開発した西廻り航路の帰港地として「西の堺、東の酒田」と呼ばれるほどの繁栄をした酒田にあって、繁栄を極めたそうです。たしかに今でも美しく残る町並みや美田、そしてお屋敷町が酒田の繁栄を物語っているかも。なかでもこの本間家、3代目光丘は中興の粗として本間家の基礎を作り、光丘文庫などの図書館をつくった人物。この美術館は4代目光道が港湾労働者の冬期労働対策としてたてた別荘だそうで、「酒田の迎賓館」として昭和天皇もおいでになったそうです。非常に文化的にも意識の高い家だったんですね。

美術館は企画展(このときはプリンプリン物語の人形製作、友永詔三さんの作品展示をしていました)と常設展示(主に庄内藩酒井家や米沢藩上杉家から拝領した品。円山応挙の絵、青磁の器などがありました)。でも特筆すべきはそのお庭でしょう。回遊式の庭園は2階からみるととても美しく配置され、町中にいるにも関わらず上質のマイナスイオンを感じることが出来ます。

   

山居倉庫

明治26年、酒田米穀取引所の付属倉庫として、船の積みおろしに便利な最上川河口の「山居島」にたてられた11棟の倉庫。西側にケヤキ並木があったり、2重屋根構造をもつなど、西日を避け、温度変化をなるべく防ぐための工夫が随所になされています。「機能美」をとても感じる建物です。

ほとんどは農協の倉庫としていまでも実際に使われているのですが、1棟だけ「庄内米歴史資料館」として一般に公開されています。庄内での米づくりや生活の変遷、米券を介し米が通貨と同様の価値をもって流通していたことが分かって面白かったです。タダでもらえるお料理レシピもたくさんあります。

   

旧鐙屋

本間家同様、繁栄した廻船問屋。井原西鶴の「日本永代蔵」にも鐙屋の記述があります。36人衆という制度をもうけ、自治を行った酒田の町で町年寄をつとめ、町政にも大きく寄与したとあります。

でも、一番面白かったのはこの鐙屋を修理する作業を記録したビデオ。一度すべて解体し、もとの木材を利用して修復する作業は、たくさんの人の情熱がなければできない作業であろうと思いました。土蔵のなかのビデオコーナーで見られます。

   

その他の観光スポットも色々あります。興味のある方は酒田市ホームページ


何の前知識もなく訪れた酒田の町は文化の香りのするとても美しい町でした。そして鳥海山のエリアには多分晴れていれば登山をはじめ、サイクリング、釣りなどさまざまなアクティビティがあります。さらに、あまり知られていませんが日本海に浮かぶ「飛島」という島も素晴らしいのだとか。ぜひ、次回は晴れを狙ってリベンジしたいものです。

←山形電力の風力発電風景。なんだかとってもすてきでした。