夏にベストセラーになった、小林よしのりの「戦争論」。
その本を読んだ人、目にした人も多いと思う。
私自身も「戦争論」を読み、自国の誇りと自虐的戦争観について、深く考えさせられた。
しかし、心の中では何かすっきりしない疑問が、何かわからないままずっと渦巻いていた。
あるきっかけで、少しだけ自分の疑問の一部を考え直す機会があったので、今回それを語ってみようと思う。
戦争を語ることは、テーマが限りなく深い。
国旗、国家問題から始まり、植民政策、軍備、戦闘手段、戦後責任など、1ページじゃとても語り尽くせない事例があり、それらすべてを総括して考えを述べるということが、そもそも難しい。
そこで、今回テーマにしたいのは、「戦後責任」というテーマである。小林氏の著書の中で、戦争責任はすべて解決したし、そのための努力をしてきた。と、具体例を出してそれらを肯定している。日韓・日朝・日中問題には、南京大虐殺、従軍慰安婦問題、植民問題など、多くの問題が未だ確固たる解決もなされないまま、両者それぞれが別のスタンスをもって、異なった認識のまま放置されていることは、紛れもない事実だ。
根拠のない事実を挙げて日本を糾弾する近隣国家。
形なりの謝罪を全面に出し、莫大な補償金を未だ払い続けている日本。
植民政策において、手厚い教育や環境改善をした旧日本軍。
アメリカの言うままに、戦後民主主義を貫く日本。
天皇賛美から脱却し、国民主権を手にした日本国民。
東京裁判にて、戦争犯罪を激しく糾弾され、命を落としたA級戦犯たち。
これらは、すべて事実だ。
これだけの視点からこの問題を考えると、日本はなんと努力していたのだと、心から思える。
ところで、この戦争責任は誰にあるのか。
「戦争論」でも語られているように、兵たちの個人的意識においては、自分の生まれた故郷のために。家族のために。愛するもののために。ただ自分は兵隊として出撃し、無事勝利を収めて帰ることだけでしかない。
そして、映画「メンフィス・ベル」で爆撃に飛び立つ男達も、「義務のために戦うのではない。国のためでもない。明日のためでもなく、ただ今この生と死のために」と。
1人1人の兵隊にとっては、ただ兵隊であることが自分の現実であり、戦うこともまた現実である。
個のエネルギーが、戦争を起こしたのではない。
それらを作り出したのは、当時の軍部、政治家、そしてマスコミ。
世論は時として大きなエネルギーを生み出す。マインド・コントロールという言葉も存在しているように、そのようなエネルギーはあるとき個を遙かに飛び越え、考えだけが生き物のように一人歩きを始めるのだ。
そして個としての意識が、否応なしにそのガイドラインに沿って流れ始める。
具体的に言えば、今冬採用された「地域振興券」。マスコミではあれほど反論が渦巻いてる中、実際にそれを手にした人間はどう感じるか。「地域振興券をもらった。使わなければ」と、これだけの意識だろう。
個としての意識は、もらったのだから、使わなければ。というレベルであり、それがマスコミという集団の世論にすり替わり、一人歩きを始めると、「地域振興券はなんと無様な愚策だ」となる。ここには大きなギャップが生じている。
動いているのは、すべて自分の生活から切り離された、政治という世界。
自分の個としての役割は、あくまでも自分中心の個としての世界でしかない。
戦争も、同じだ。
太平洋戦争の意義は、東南アジアが続々と欧米諸国に侵略され、植民化されていく中で、日本がはじめてそれに向かって立ち上がったことから始まった。これ以上の侵略を許さず、自国の誇りを保つために。
このご大層な立派な戦争意義は、ここでは問題にしない。
ここで問題にしたいのは、最終的に「戦争責任」をとることになった日本の考え方である。
いくら有意義なご託を並べてみても、日本は戦争に負けた。
そして、「国際的な視点」で、まぎれもなく戦争犯罪という罪を被った。
「悪いことをしたら、反省し、今後同じ事を繰り返さないようにしなさい」
これらは、私たち日本人の常識である。家でも、学校でも、社会でも。
私たちはそんな価値観を学び、受け継いで育った。
この視点からして、当然、いくらいいわけがあっても、反省すべき点を反省し、今後罪を犯さないようにするという事が、戦後責任の一番重要な点である。
そして、日本はアメリカのいいなりになり、国民は原爆ドームを遺したりもし、「二度と悲惨な戦争を起こしてはならない」と、それぞれの心の中に刻みこんだ。これは、大局的な意味でまっとうな謝罪であり、反省であり訓戒である。
しかし、そんな中、戦後の朝日新聞は次のような記事をうち立てた。
「この点に対する責任は、決して特定の人々に帰すべきものでなく、一億国民のともに皆に負うべきものであらねばならむ」
その通りである。
その通りなのである。
しかし、朝日新聞がこう偉い事を言える立場なのか?
はっきりいって、このようなきれい事を言えた権利は、どこにもない。
念のため言っておくが、批判の多い朝日新聞を私は別に批判するつもりはない。なぜなら私は朝日新聞を読んだことがないから、人の又聞きで判断するつもりは毛頭ないからである。たとえ、この一文を載せた新聞社が毎日新聞でも、読売新聞でも、中日新聞でもどうでもいいことだ。
何故、朝日新聞がその言葉を言う権利がないのか。
その理由は、先に述べた「個としての意識と、一人歩きを始めた意識」のギャップにある。
そもそも、新聞社は、一人歩きを始めた意識をあおり立てる存在にある。
その通りだ。
個としての意識は、自分が大きく自分の意見を広く世にしらしめるという行為を行わない限り、皆に認知されることはなく、あくまでも個としての意識の中だけにある。しかし、新聞やTV、ラジオなどは、広くその意識を広めるためにも存在しうる。
戦争という世論を、ここまで大きく国民に波及させたのは、軍部と政治家の動き。そして、それをあおり立てたマスコミらの力に他ならない。以下に、その記事(MSNニュース&ジャーナルより)を抜粋する。
戦犯に対する追及は、GHQ(連合国軍総司令部)の手によって行われたが、日本自身が、戦争を指導した軍人や政治家、官僚、軍需産業の経営者などの責任を追及する姿勢はなかった。
戦争をあおりたてた言論界でも同じだ。朝日など各新聞社で最高幹部、編集幹部が総退陣し、“民主化”の動きが始まったが、「2.1ゼネスト中止」(47年)、「レッド・パージ」(50年)などGHQの占領政策の変更もあって、責任追及は中途半端に終わった。
「同じ敗戦国でも、ドイツやイタリアの責任追及はまったく違います。ドイツでは、戦前あった新聞社が責任を問われ、100%潰されました。隣のフランスでさえ、ナチス占領中に協力した新聞は廃刊に追い込まれ、戦後も残ったのは300のうち7紙だけといわれます。戦争を賛美した新聞がそのまま残り、幹部が次々と復帰できたのは日本だけです。戦犯追及にしても、ドイツやイタリアは、連合軍に委ねるだけでなく、自分たちの手で裁いてきた。ドイツでは敗戦から54年たった現在でもナチス戦犯の追及が続き、つい数年前にも南米に逃亡していた元ナチスの強制収容所長が逮捕され、80歳ながら、終身刑の判決が下されました。国会は“戦争犯罪の時効廃止”を決議し、ナチスを正当化したり、過小評価するだけで罰せられる法律まで施行されています。戦争責任に対する徹底ぶりは日本と大違いです」(評論家・岡本愛彦氏)
戦争犯罪者は、戦後社会で生き残れないシステムになっているのだ。
このことより、朝日新聞のスタンスというのは
「悪いことをしたら、反省し、今後同じ事を繰り返さないようにしなさい」
この前半部分だけである。「今後同じ事を繰り返さないように」という姿勢を見いだすことが出来ない。
その世論に荷担した、様々な新聞社は、上層部の処罰のみに終わり、その本体は未だ老舗として歴史を刻んで残っている。
朝日新聞に限らない。他の新聞社だってそうである。
このことに、今まで何も気づかなかった私、そして日本人。
未だ日本が糾弾され続けているのは、このようなナァナァ体質に問題があるとはいえないだろうか。
現状の日本をみても、その姿勢は同じである。
いくら民主主義とはいえ、この数年、住専問題、ブリッジバンク、公的資金など、金融不祥事が相次ぎ、そのたびに税金がわけもわからず投入される。問題が起こっても、潰すべきものを潰さず、責任のある者の資産さえ剥奪されず。
これは、「資本主義・民主主義」という言い訳の仮面を被った、歴然たる社会主義体質ではないのだろうか。
「景気低迷回避のため」といいわけをしつつ、裏で何をやってきたかもわからない金融機関が、ただ大きいからというだけで。ただつぶれると日本の経済的な立場が悪くなるというだけで。当たり前のように公的基金によって当然のように救われる。そして、「喉元過ぎれば熱さ忘れる」のである。そして、それを責めるべき者が、それを責めないのだ。
当時の新聞社も、今の破綻した自由主義政策と同じだ。
歴史と規模、そしてそのニーズの過多によって生き残りが決められるのか。
とすると。
大きければそれでいい。大きいものならば何をしてもよい。大きいものならば何をしても許される。
ということなのか。
立場もわきまえずに、そのような姿勢が当たり前のように受け入れられる国、日本。
物事の本質を見極めることもせずに、ただ、降りかかってくる環境を受け入れるしかしらない、見せかけの民主主義。
そんな現実の上で、戦争責任を言葉と金で謝罪して、それは心に響いてくるのか。
A級戦犯と認定された人物が、大手を振って首相に就任し、大手新聞社の社主となり、世界に名だたる大企業の会長に就任する。そのような滑稽なことがまかり通っているのだ。
いくら言葉で、態度で謝罪しても、日本でそのようなことが何の疑問もなく受け入れられるのならば。
口先八丁。どんな深い言葉も、国際社会には伝わらないはずだ。
「戦争責任」
その謝罪は日本の価値観が決めるのではない。
あくまでも。国際社会の価値観がそれを決めるのだ。
いくら日本人が許しても。水に流しても。戦争責任を果たしたと主張しても。
謝罪をする側が、その罪を許せる、水に流せるなどと主張することが許されるはずがない。
それを決めるのは、謝罪される側でしかないのである。
本当に、これこそが「身の程知らず」である。
日本が他国に対して、どれだけの額を「賠償」という名の金として献上したかは問題ではない。
謝りながらも、その軽薄さに気づかないその体質にあるのではないかと、私は感じた。
日本は戦争を忘れたかのように、平和に国際社会にとけ込んだかのように振る舞うが、未だにすべてはお上が決めたこととして何の疑問も持たずそれに従う国である。
これは、戦争の反省が何も生かされていないという証明ではないのか。
このような背景を持つ日本が、何と正論を訴えても、胸に響いてくるものがない。
いつまでたっても、この歪んだ構造に皆が気づかない限り、本当の意味での国際社会での日本の立場は確固たるものにできないだろう。
だからこそ、自分たちで自分たちを裁くことができなかった日本が、未だに責められているのではないだろうか。
私は左翼的な意見も、右翼的な意見も、それぞれの視点で正しいと感じることがあり、共感できないと感じることもある。
今更自虐的になることも、高飛車になることもバカげてる。
どちらにも、属する気はない。
ただ、おかしな事を、おかしいと言える、そして、裁ける人間になりたい。
そして私の生まれた日本という国にも、そうなってほしいと願う。
私の周りの、すべての大切な人たちにも。
やっぱり。
「男は黙って、サッポロビール」 |