7.価値観の認識

久しぶりの語りですっ。
色々語りたいことは多いんだけど、時間がなくてなかなか書けないの。
やることが多くて、「片付けるまで語るなよ〜!」とか言われてるんだけど、あえて、今日はその禁を破るのだ・・・。(^o^)
っていうか、次世代HP作成が、多忙のため追いつかず、フォーマット変わってないけど、それは許してね。

#で、これを書き始めたのは5/10前後なのだけど、書きかけの今日、森首相より「神の国」発言があった。
 そのことも織り交ぜてさらに思いを綴る。

少年事件の増加

00年のGW中に起きた忌まわしい事件。
佐賀の少年のバスジャック、豊川の少年の刺殺事件。
一昔前だったらその話だけで何ヶ月も話題をさらってるような犯罪が、またかというような感覚で通りすぎていく。
そして、我々もその感覚に麻痺し始めている部分があるのではないか。犯罪を、またか、としか思えない感覚。考えてみれば本当に恐ろしいことだ。
最近は、若い少年の凶悪犯罪が多い。
その中で、「思いやりを身につける教育を」、とか「少年法の改正を」という声があちこちで上がっている。
基本的に私もそれらの意見には賛同するが、これらの事件には、少年法の問題という以前に、もっと深いところに根があるような気がしてならない。
海外は治安が悪いと言われる。しかし、海外で起こる犯罪は、何かしら理由がある。それが貧困だったり、政治的背景であったり、何かしらの原因がある。しかし、日本の青少年のそれは、理由なき犯罪なのだ。
その奥深くに、日本国憲法の罪深さが隠れていることに、気づく人は少ない。

若い人が、夢を持てなくなった。希望が持てなくなった。自分の心のよりどころが見つからない。
そんな背景がこれらの事件の引きがねになったことは否めない。

「若い人ではなく、生い先の短い老人だったら、殺してもいいと思った」

豊川事件の犯人が供述したこの言葉には、様々なものが見え隠れしている。

最近の若者は小子化が進み、核家族化していった。
老人と接する機会も多くない。
働き盛りといわれる大人の世界には、嫌なことが多いことは、多くの社会人であれば理解できる。しかし、子供には理解できないだろう。
理不尽な事もある。誠意も通じないこともある。おとなの引き起こす社会的不祥事は、子供の目にも見える最たるものだ。
嘘や建前に覆われた大人が、みなそれを当たり前のように受け入れていることに疑問さえ感じる。
そんな社会と、抑圧された戦後の日本の教育。突出したことを毛嫌いし、皆が標準的なものさしだけでしか計られない学校。
その中で、子供は理不尽な社会の構造に嫌気がさす。また、大人に信頼感をもてず育っていく。
子供は大人になることが怖くなる。大人になることに対して夢や希望を持てなくなる。
一番、向学心熱心で、知識を吸収すべき大切な時期なのに。そのエネルギーをどこにぶつけたらいいのかわからないのだ。

「大人なんてつまらない人間じゃないか」

そのうえで、老人に対する蔑視的な「先行きが短いのだから、殺すには絶好のターゲットだ」という気持ちが芽生えたのだ。
彼にとっての大人は何も希望がない存在なのだろう。
大人をすぎた人間は、誰しもが希望がなく、寂しい心を抱いているとしか彼には信じられない。
自分もいずれそういう大人になるのだろう。自分は今の純粋な心を失うのがつらい。たえられない。
自分が軽蔑している「大人」という年代に入ることが怖い。
このまま大多数のなかに自分が埋もれるのか?人ひとり殺すくらいほんの些細なことなのじゃないだろうか?
そんな歪んだ気持ちが、純粋だからこそ、また、下手に頭がいいからこそ育ってしまい、それが発展したものがこれらの事件なのではないだろうかと私は感じる。
しかし、これは決して核家族化がそれを生み出したわけではないのだ。

戦後50数年を経て

日本は、太平洋戦争に敗戦し、50年あまりの時をやりすごした。
そして、戦争によってアメリカの指導のもと、日本国憲法が制定されて、大きな改革もなく、今に至る。
皆に聞きたい。今の日本はシアワセな国家なのか?と。
その前に私の見解を述べたい。
その日本国憲法が制定されてこれまでの歴史は、日本国憲法にもとづくそれにあらず。大半は日本の古来から培ってきた国民性と、明治時代に制定された、大日本国憲法の歴史なのだ。
本来の日本国憲法の真実は、この10数年の間にじわじわと目に見えて現れ始め、 おそらく現在、ちょうど今ごろに成人式を迎えた若者の活躍する代で、明らかに結果となって現れる。
その根拠はこうだ。
例えば、我々の価値観として、「米が主食」という日本人は、現在もかなりの割合を示すだろう。
そして、それは小さい頃からの食生活によって培われてきた。漬物や味噌汁も同じだ。
今でこそ、飽食の時代とも揶揄されるように、各国の美味しいスープやパンが毎日の食生活にとり入れられてきたが、現在20歳以上の日本にて生活を営んできた人間は、基本的にその認識に変わりはない。

つまり、「既に培われた価値観を変えるのは、容易ことではない」ということを、まず認識してほしい。

戦後の教育、社会。それらは戦前の価値観を色濃く引きずっている。
人間の人格形成の源となる、「家庭」という場において、日本古来の伝統や文化がいきづいてきたのは言うまでもなく、明治維新後も生き続けてきた武士道(精神)の色を濃く受け継いでいる。
例えば、「恥を知りなさい」 「あなた自身に誇りを持ちなさい」「弱者には優しくしなさい」「親を大切に」・・・そんな日本独特の精神を礎とした道徳教育が、どこの家庭でも行なわれてきたものだ。そして、それらは法律とはまた別の次元で息づいている。
戦後に生まれた我々がそのような教えを受けているのは、まぎれもなく戦前の生活を受け継いでいる。戦前の生まれの世代が社会や家庭の中枢を担っていたからこそ、その精神は受け継がれることができた。
そして、 戦前に産まれた人々は、長い年月の間に老い、死を迎えてきた。

世代はバトンタッチし、現在の日本の中枢を担っている人間たちは、戦前の家庭や社会で育った人間となり、そして今、戦後の家庭や社会で育った戦後生まれの人間が、ちょうどこの頃の若者の世代なのである。
劇的に変化を遂げた戦後。その中で生まれ育った人間が親となり、子を育てた。核家族化が進み、昔の話を教えられるのは学校教育の場だけとなった。
そして、忌まわしき過去のように、あまり触れられることもなく、日本は戦争に負けた。あれは侵略戦争だった。と文部省によって伝えられる。
そして、それは日本の汚点だと。
社会的風潮も何もかもが、それまで培ってきた日本の伝統や文化を何もかも否定した。そんな時代の経緯がある。

今の時代に生きる若者は、紛れもない純粋な戦後育ちが大半を占める。

私が、最近の凶悪な事件に思うのは、そのことだ。
戦後の教育、憲法、すべてがアメリカの主導により決められ、国民は、国民主権というものをそのまま掛け値なしで素直に喜んだ。あるがままを受け入れるあるがまま体質の日本。
その結果は、戦後からこれまでの間に現れたものではない。まさに、これからどんどんとその結果が表面化していくのだ。
アメリカが日本に敗戦の結果として与えてくれたものは、十分な施しと、そして、アメリカのシナリオである。
このことに気づいている日本人が、そして政治家が、いったいどれほどいるのだろうか。
こんなにも凶悪事件が当たり前のような国家になって、それでも気づかないその本質。

神の国

折りしも5月の半ば、森首相が「神の国」発言をして、パッシングにあい、謝罪を行なった。

「憲法の主権在民、信教の自由を尊重、順守するのは当然であり、誤解を生じたなら申し訳なく、おわび申し上げる。
発言の真意については、少年の教育の問題が指摘されるので、人の命の大切さを理解することや宗教的な情操を深める教育が大切だということを言った。
また、天皇は時代によって位置づけは変わったが、現在は日本国の象徴、国民統合の象徴と申したもので、主権在民に反するものではない」

私は、正直なところ森首相はあまりにも胡散臭げで好感を持てなかった。
しかし、この発言で、私自身の考えと非常に近いものを感じる。まったく同じといっても良い。
この発言の誇張された部分が曲がって伝わるのは、相変わらずマスコミの誇大広告、そして、付和雷同的な読者の力が大きい。
三国人発言といい、神の国発言といい・・・言葉はどのようにも解釈できる。ましてやその一部分を抜粋できるならばなおさらだ。
本当にまともに報道する気があるのかなぁ?

と、話はそれたが、 ご存知のように、戦後、日本はアメリカの主導のもと、法律だけでなく、生活の様々な部分が大幅に近代化し、人々の生活は一新した。それまでの長い長い歴史の上で、限りなく国の主権であった天皇は、象徴天皇としての存在にかわり、国民主権がうたわれた。
基本的人権の尊重、戦争放棄とならび、国の3大政策のもっとも大きな部分をしめる。
しかし、失われたものの大きさは、それらの比ではない。

世界大戦に敗れ、日本国民は「天皇陛下」という心のりどころを亡くしてしまった。そして、なにかが変わってしまったような気がしてならない。
日本には、キリストやイスラムのような、宗教というかたちの心のよりどこ ろが確固とした文化をなしていない。
そして、そのかわりに天皇陛下(神道)にそのよりどころが存在していた。
ものごとの善悪は、すべてその道義のもとに、各人で判断を下していたものである。
自国の誇りや自分への戒めなど、それらは信じるものの有無によって大きく変わる。
それらを亡くしてしまった時代の人間が 育てた子供が、今ちょうど思春期にさしかかっている。
教育はすべて学校任せ。文部省と教育委員会の作った方針通りに進む授業。核家族化。
そのなかで伝えられてきた日本の誇りや精神が欠落している。
グローバルな視点での誇りや潔さの精神。その考えかたがそもそもない。自らを裁くことをしない価値観。
それが戦後、最も被害を受けた、個人主義の正体だ。

個人主義という言葉は、個の意識を中心にした意識である。
それだけを聞けば自由でグローバルな印象を受ける。しかし、所詮個の所属する世界は、小さな世界なのだ。
自分が生まれてから出会う人々の数は限られている。世界中の人間に会い、深くを理解することはできない。尊敬できる人間がいることはすばらしい。しかし、所詮小さな世界で出会った人であることを意識しているだろうか。
個の意識とは、そのような小集団の中で培われ、それを中心に世界が回っていると錯覚しやすい面を強く持っている。
故に、たくさんの人が論議をかわし、いいにしろ悪いにしろ、日本国憲法という指針でしか裁きを行なうことができない。
法律にさえパスすれば何でもあり。 まったくの性善説の国に変わっていった。
そして、 その中で生きる、誇りや潔さの武士精神をなくした人間。
純粋な子供であればあるほど、社会の影響を強く受けて育ってしまう。
そんな世界が今の日本の光景だと思う。
これは国民的、歴史的被害でもあり、国家および、すべての家庭の両親と、日本の文部省の怠慢でもある。
そのなかで気持ちの行き場をなくした子供こそが歴史の被害者でもある気がする。

純粋な子供たちが、自らの誇りを持てるような国にできないのは、大人の怠慢であり、責任だ。

自らを認められない人間が、他人を認めることができるはずもない。
自らの心の痛みを感じない人間が、他人の痛みを感じることができるはずもない。

どうしょうもなく、私のような小さな存在にはなすすべもない無力さが、また哀しい。

せめて、世の中のすべての父母に望みます。
誇りという意識を持てる子供を育ててください。

誇りをもつにはどうしたらいいか?
宗教に限らなくていい。
自らの存在を認め、子供の存在を認め、そして、自らが誇りをもち・・・と、ありきたりの事しか言えないけれど。

戦後50数年。

日本人は愛国心という、右翼的でもなんでもないその国に生まれた人間として、生みの親への感謝と同等、ごく通常あたりまえに持ち合わせているであろうきわめて自然な感情を失い、
そして、それを否定、批判する人々が多くなったことが、ただ哀しい。

明治時代には、日本の原風景がある。
日本が日露戦争に勝利したもっとも大きな事由のひとつに、「日本古来の精神」が存在する。
その話は、またの機会に。
我々は歴史を否定するのではなく、歴史から多くのことを学び取る姿勢を思い出す必要があると思う。

(2000.5.18)

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