2.人生の畝

先日・・・
私の実家の家業の取引先のご主人が自殺をしたと聞いた。
物心つく前から、毎週のように卸売りに来てくれる人のいいご主人で、私もなついていた。
子供達は、私よりいくつか年下で、2人とも、今年短大や専門学校を卒業し、就職も決まって・・・
ご夫婦の仲も良く、さぁ、これからの前途はゆっくりできるぞという矢先の首吊りだった。
鬱だったのではと言われていた。

鬱病というのは、話以上に怖い病気である。
まず、自分が鬱病であることに、気づかないまま鬱が進行する。
自分の死というものの意味を、まるで1本のチューリップの花を手折ることと同じように認識する。
自分の大切にしているもの、希望、目標。
そういう感情がことごとく自分の中で行方不明になってしまい、そんな自分が当たり前になっていく。
部門を異動する前、私自身にそういう時期があり、それを通り越してここまで歩いてきたから・・・
あのときの私は毎日死にたかった。
毎日声を上げて泣いていた。気づかない間に涙が流れて止まらなかった。理由があるときも、ないときもあった。
笑うことを知らなかった。ただ、一切の感情を押し殺すしかなかった。
押し殺していないと、自分が何をしでかすか判らない衝動性を持っていたから。
よく、回復できたと自分でも思う。
そして、なぜ自分があんな悲観的な気持ちになっていたか今では分析することもできない。
ただ、自分の心がそうなっていた。
そして、自分が鬱だったと気づくのは、本当に回復してからなのだ。
でも、あのとき、環境を変えたいと心の底から渇望しなかったら。そして一歩踏み出す勇気を持てなかったら。
私はご主人の先達となっていたと思う。
なおさら、やるせない。

端から見た幸せは、あくまでも端から見た幸せでしかない。
本当の幸せなんて、満足なんて、その人にしか判らないものだ。
人にははかりかねる苦しみがご主人にあった事は確かで、
それを自分の死でしか全うできない状態まで、たったひとりで我慢し続けたのか。
何も死ななくて良かったのに、という言葉を、私は思うことができない。
少なくとも、彼の中で、この死は、必然性があった出来事。
・・・ということだけを、感じる。

そんな風に、人の一生というのは儚い。
普通に生きていて、そして寿命を迎えること。たったこれだけでも、儚いのだ。
物質的な肉体は、所詮そんなふうにできている。
人間はその儚い一瞬を繰り返して歴史を刻んでいて
そして今生きている私たちがその位置にただ存在してるだけ。
その中で永続的に生き続けているのは、思い出。
誰かと出会い、すれ違い、言葉を交わす行為。
その存在は確実に心に根付き、思い出というかたちで、人の死後も鮮やかに生きている。
そしてその思い出という存在を内包した人はまた別の人に・・・
そんなふうに、見方を変えれば、人の存在というものは永続的なものになりうると、私は思う。
人間はこんな繰り返しで、今まで歩いてきた。

人は、一人で生まれてきて、一人で死ぬまでの間
数え切れない人生の畝を経験する。
いいことも、わるいことも
すべてそれは自分だけの人生。
自分が選んできた人生。
ただ、遺された者の心の痛みは計り知れない。
その心の痛みは、また人生の1つの関門。
その中で自分の人生に自分で評価・決断を下すのは、誰も彼も自分自身でしかない。
そんな風に、それぞれ人生の畝を迷いながら生きていくしかない。
いつか、自分が死ぬときに、私は精一杯生きてきたと思いたい。

自分の人生に、一時でもすれ違う人の死という出来事は、少なからず衝撃を受ける。
ご主人の安らかな冥福と、遺された家族にもよき人生が歩めることを、祈ります。


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